リベラルアーツ研究教育院 News
【文化人類学】リベラルアーツ研究教育院長 上田 紀行 教授
文化人類学を一言で言えば、多様性を理解するということだと思っています。この世界にはいろんな民族がいれば宗教もあり、同じ社会の中でもジェンダーやジェネレーション、生まれ育った場所によってモノの見方は変わってきます。一方で、理工系の世界においては、「正解はひとつ」であるという考えが優勢です。でも、実際に我々が生きる社会には、多数の正解が存在する。
ひとりひとりに多様な正解があり、違う正解を持つ人たちと調和して生きていかなければなりません。そういう意味で、文化の多様性を学ぶということは他者理解を促し、自分自身をも深く見つめることにつながります。自分を生かしながら他者をも生かし、社会をよりよいものにしていくにはどうしたらいいか。そんな想いを芯に据えて日々講義をしています。
講義では、座学だけでなく、文化体感するために、ワークショップも取り入れてきました。変わったところでいうと、バリ島のケチャです。これは相当面白いですよ。ケチャは4つのリズムパートで構成されていて、それぞれを重ね合わせると16ビートになるんですが、他の人のリズムに引きずられないように自分のパートをこなすのは大変。
でも慣れてくると、隣で違うリズムを刻む人がいる一方、教室のあちこちに自分と同じリズムを持つ人がいるんだとわかってくる。それを感じながらシャウトして、全員のリズムが絡まり合ってケチャになる瞬間はものすごい快感です。途中から部屋を真っ暗にすると恥の意識もなくなり、振りを付けたりスキャットにしたりと、学生たちもどんどんノッてきて最後は大合唱です。
本やビデオを見ただけでは「なんか変なことやってるな」で終わる世界の文化や風習も、自分がやってみて気持ちいいとわかると、他人事じゃなくなるんです。その感覚は、たとえば社会に出て群衆の中で孤独を感じたときも、「でも、この中には自分と同じリズムを刻む仲間がいるんだ」という安心感を生みます。異文化を理解することで、自分自身の社会の見方もガラリと変わってくるんです。こういう体験が、生きづらさの解消や自殺率の低下につながるんじゃないかと私は思っているんですが、それをいくら言葉で言っても通じないので、まずはケチャで体験してもらおうというわけです。
他大学の学生を混ぜた少人数ゼミもやっています。もともとは、自由テーマでひとりが発表したものをみんなでディスカッションしたり、合宿で夜通し語り合うというゼミなんですが、ある年の受講者が全員男で。しかも最初のひとりが選んだテーマが「恋愛論」で、「恋愛にはいくつかの類型があって、僕がこの前彼女に振られたのは類型がマッチしなかったからだと思います」なんて発表して、周りの男たちが「そうなんだー」とか納得してる。もうなんか吐き気がしちゃって(笑)。
それで私がリレー講義の一コマを担当している慶應大学の看護医療学部の学生に参加を募って、以来そこの女子学生(男子看護学生が参加したこともあります)が参加することが恒例になっています。互いにまったくの“別人種”と交流できるので、これもまた他者理解、多様な生き方への共感につながります。
学外でも『生きる意味』や『愛する意味』などの著書や講演で、自分らしく生きることの大切さを問いかけていますが、かなりベタですよね。だって「生きる意味」ですよ(笑)。でも、格好つけてもしょうがないので本音をそのまま語っています。文化人類学者がなんでこんなことを問うのかというと、私自身10代後半から20代の頃は絶不調で、生きる意味を見失っていたからです。
私は子どもの頃からテスト小僧で、コスパよく点数取ることに長けている一方で、例えば地理も古文も点取りの道具としか思っていなかった。ところが大学に入ると、エジプトの古代文明とか源氏物語のことを目を輝かせて語る学生がいるわけですよ。自分にはそこまで情熱を持てるものは何もない。社会の冷たさや不平等に憤ることがあっても、自分ひとりでは何もできない無力感に苛まれ、親との葛藤に悩み、加えて中高男子校だったせいで女子ともまともに話せない。いろんな不調が重なって、まぐれで入った東大の理科二類も結局留年です。
そんな苦境の中にいましたが、私の場合は、沖縄で海の美しさに触れたり、インドで強烈な人や文化に出会ううちに、閉じていた世界との回路が開かれたんです。おかげで文転して、10年後にはスリランカで悪魔払いの研究ですよ(笑)。あと、20代半ばぐらいに演劇ワークショップや自己啓発セミナーなどで、徹底的に自分の弱点をさらけ出した経験も効きましたね。いいところを見せようと思っても、見透かされてしまう。ならば隠す必要はないな、格好悪くても本音でぶつかっていこうと。それでだいぶ生きやすくなりました。
学生たちには、ことあるごとに押しつけがましく私の経験を伝えてますね、自虐ネタを交えながら。お節介な教授だなあと思われてるんじゃないでしょうか。でも教師なんて「嫌われてなんぼ」なんです。私自身もそうなんだけれど、嫌なことを言う先生や夢みたいな理想ばかり語る教師のことって、意外と大人になってからも覚えているんですよね。ああ、あれはこういうことを伝えたかったのか、と後からじわじわ効いてくる。だから、講義でもあえてエッジを立てた話し方をしたりしています。もちろん、ある学生にはヒットして他の学生には引っかからないかもしれないけれど、文化人類学でいえばそれも多様性。正解はひとつじゃないんです。
リベラルアーツとは「人間を自由にする技」ですが、これからは科学技術自体が人間を自由にするか否かが問われる時代となります。つまり科学技術自身がリベラルアーツになり得るかが問われているんですね。たとえば人工知能の普及により人間は幸福になるのか、はたまたAIに支配されて不自由になるのか。あるいは遺伝子工学にしても、人間の遺伝子を改変して病気を治すことができる一方、遺伝子レベルで優劣がつけられて人間が生きにくい社会になるかもしれない。ともすれば、便利で豊かなはずの科学技術が、悪用されたり戦争を生み出すこともあります。
つまり、科学技術が進歩すればするほど、それを裏打ちする、人間とは、幸福とは何なのかということが鋭く問われるようになるのです。だからこそ、科学の最先端を極める人間は、人間や社会、文明、歴史といったものにより鋭敏な意識を持たなくてはなりません。本来、科学技術とは自由な魂と結びついて新たな創造を成していくもの。何が人類にとって幸せなのかを考え、その実現を目指して研究することに意義がある。そうした科学者を育成するにあたり、リベラルアーツはいわば「生きる意味」そのものを考える基盤となる学問なのです。
だから本大学で学ぶ学生には、まずは、何にでもワクワクする自由な魂を持ってほしいですね。もしかしたら、それまでは私のように孤独に点数を取る作業ばかりしていたかもしれない学生も、ゼミで議論を交わしながら切磋琢磨し、あるいはラボで協働しながら仲間たちと一緒に未来を創り出していってもらいたい。
みなさんの未来は大学を卒業してから始まるのではなく、入学したときからすでに始まっています。ここで語り合うことが社会と直結し、科学の最先端となるんです。そんなライブ感をもって学んでいくことが、人間的にも魅力的な科学者を育むのだと思います。世間では、理工系はダサイみたいに思われがちですが、とんでもない。東工大には魅力のある学生も教授陣もわんさかいます。しかもその魅力はリベラルアーツでますます磨かれる。イケてる学生、イケたい理工生こそ、東工大に来るべきですよ!
研究分野 文化人類学
リベラルアーツ研究教育院長
文化人類学者、医学博士。1958年生まれ。筑波大学付属駒場高校から東京大学理科二類に入学、同大学教養学部卒業。東京大学大学院博士課程単位取得退学、岡山大学で医学博士取得。86年よりスリランカで「悪魔払い」のフィールドワークを行い、文化人類学の立場から研究した「癒やし」がブームに。日本仏教再生に向けての運動にも取り組み、03年より「仏教ルネッサンス塾」塾長、「ボーズ・ビー・アンビシャス」のアドバイザーを努め、05年にはスタンフォード大学仏教学研究所フェローとして講義を行う。東工大学内においては、学生による授業評価が全学1200人の教員中1位となり、04年「東工大教育賞・最優秀賞(ベスト・ティーチャー・アワード)」受賞。著書『生きる意味』(岩波新書)は、06年全国大学入試において40大学以上で採用され、出題率1位。他の著作に、『愛する意味』(光文社新書)、『立て直す力』(中公新書ラクレ)、『スリランカの悪魔払い』(講談社文庫)、『人間らしさ 文明、宗教、科学から考える』など多数。