リベラルアーツ研究教育院 News
【中国文学】楊 冠穹 准教授
私の専門は中国の近現代文学、なかでも「八〇後(パー・リン・ホウ)」作家を中心とした文学・文化研究を行っています。
「八〇後」というのは、1980年代生まれの人たちを指す言葉です。1979年の改革・開放政策による市場経済社会の成長とともに歩んできた彼らには、文化大革命(1966~76年)の影響を受けた前世代とは明らかに違う特徴があります。急速な経済発展と一人っ子政策を背景に、その多くは大卒などの高学歴であり、近代国家的な思想や経済感覚を持った、建国以来の世代といえるでしょう。
その「八〇後」も、今では30代後半から40代となり、ビジネス社会や消費市場を主導する立場にあります。ゆえに、ビジネス領域での「八〇後」世代の消費行動については日本でもよく研究されているのですが、こと文学となるとまだまだ遅れていると言わざるを得ません。
そもそも、日本では「八〇後」文学を知る人が少ないんですね。また中国本国でも、文学というより一時的な文化現象として扱われることが多いのです。その理由は、彼らの一部が作家協会に入ることなく活動し、成功を収めている点にもあります。
というのも、これまでの中国では、既成文芸誌での連載を経たのちに単行本を出版し、プロとしてデビューして作家協会に所属するのが慣例でした。「七〇後」世代に入ると、ネットも創作ステージに加わりましたが、それでも作品刊行は連載人気や高評価を得てから。ところが、「八〇後」作家たちは文学賞受賞などを機に、いきなり単行本を出すんです。で、それがドカンと売れる。
「八〇後」作家を代表する韓寒(ハン・ハン、かんかん)などはその好例で、彼は高校1年時の1999年に第1回新概念作文大会でグランプリを受賞し、翌年出版した処女作『三重門』でいきなり100万部を売り上げています。一方で、この出版という商業行為から出発したことにより、既成文壇からは文学の商品化と揶揄されたのです。
でも、彼らの作品の中で表現されている価値観は、「八〇後」世代特有のものであり、同世代の読者には極めて大きな影響を与えています。私自身も「八〇後」の一人として、韓寒の作品は大好きです。どうしてこんなに好きなのか。他の世代の作家とは何が違うのか。それをもっと知りたいという想いが、研究を始めるきっかけにつながりました。
「好き」という気持ちは、私の研究や行動の源泉となっています。私が日本語を学び、日本に生活の場を求めたのも、もとはといえば学生時代に日本のアイドルに惚れ込んだから(笑)。地元の大学を卒業後、迷わず上海電通に就職したのも、日本への憧れからでした。
いつか日本でアイドルのコンサートを観たい。彼らの喋っている内容を聴き取りたい。その一心で、日本語も猛勉強しました。一度、勤務中に日本語のテキストを開いているところを日本人の上司に見られてしまったのですが、怒られるどころか、「仕事のためになるから」とあたたかく応援していただき、ますます日本が好きになりましたね。
日本への留学を決意したのは、社会人2年目のこと。日本語を使って仕事をするなら、やはり日本での学歴も必要だと考え、まずは早稲田大学の日本語教育プログラムに1年間通いました。そこで次の進学先を考えていたときに、偶然見つけたのが、東京大学の中国語中国文学研究室のホームページでした。シラバスを見ると、中国で人気の女性作家・安妮宝貝(アニー・ベイビー)の作品を読むという授業があったのです。
衝撃でした。新しい作家の作品を大学の講義で取り上げるというのは、当時の中国ではあり得ないことだったからです。その授業で教鞭をとられていたのは、魯迅の研究で有名な藤井省三先生でした。この出会いをきっかけに藤井先生に師事し、以来約10年間を研究室で過ごすことになりました。
大好きな韓寒を中心とした、「八〇後」文学の研究を始めたのもこの頃からです。ただ、同時代文学の研究が難しいという点では、日本も中国と変わりません。作家や作品が新しすぎて、まだ研究対象としては認められていなかったんですね。藤井先生にも、「このテーマで博士号を取るのは大変だよ」と言われ、実際、最初の学会論文採用までに3年もかかりました。
新しい文学を研究することに、価値はあるのか。そう自問することもありましたが、それでも「新しいから手を出さない」というのは絶対違うと考えていました。まず誰かが始めないと、何も生まれません。その最初の一人となるんだと覚悟を決めて、がむしゃらに研究を続けてきました。
それから10年以上が経った今、「八〇後」作家を取り巻く環境は大きく変わりつつあります。政治的発言の多い韓寒も、最近では文学作品の発表を控え、映画制作に傾倒しているようです。「八〇後」の活動が新しいメディアへと拡大するなか、今後は文学だけでなく、文芸を起点にした映画やドラマ、音楽など、「八〇後」カルチャー全体に研究範囲を広げていく必要があると考えています。
また、さらに世代を遡って、中華民国期(1912~49年)の上海文学からのつながりを辿ってみたいという欲もあります。「八〇後」というテーマにはまだまだ研究すべきことは多く、これを少し離れた日本から見つめることで、新しい風景がひらけてくるのではないかと期待しています。
2023年4月からは、東工大で中国語の授業を担当しています。
私は公募で採用されたのですが、応募の動機はリベラルアーツ研究教育院の存在にありました。まだ東大の博士課程に在籍していた頃、留学生の進学指導にあたっての情報収集をするなかで、その名称が飛び込んできたのです。理工系大学に文系学部があることに、まず驚きました。もう6~7年前になりますが、以来、東工大のことはずっと気になっていました。
いざ入ってみたら、今度は学生たちの熱意や真面目さにまた驚かされました。理工系の大学だから、文系、それも第二外国語の科目はあまり重視されないのかと思いきや、みんな本当に熱心に授業を受けてくれるんです。中国語が将来役に立つと考える学生が増えているのかもしれませんね。
実際、前の大学で教えていた卒業生などは、「中国語のおかげで就職できた」「中国語が業務で重宝されている」といった、嬉しい報告をよくしてくれます。ちなみに彼女は1年生のときから見ていた学生で、中国語は大の苦手。でも中国のアイドルが好きになったことで勉強が楽しくなり、メキメキと実力を上げていったのです。やはり、「好き」の力は絶大ですね。
学習のモチベーションを引き出すために、授業ではできるだけ学生の興味を引くような話をするようにしています。たとえば、中国人の「爱」は、日本人の「愛」と違って心がないんだよ、なんていうちょっとした冗談などを織り交ぜることで、簡体字も覚えてもらいやすくなるんです。
また、外国語は繰り返し学ぶことが必要なので、毎回の授業をZoomで録画し、復習教材として活用します。授業はリアルで行いますが、黒板はほとんど使いません。手元のタブレットに書いたものをプロジェクターに投影することで、すべて動画に残すようにしています。こうした工夫も、学生には喜んでもらえているようです。
次のクォーターからは、「外国語への招待」と「世界文学」も担当する予定なので、楽しんで学んでもらえるよう、これからも色々な試みにチャレンジしていくつもりです。
東工大に来てから、リベラルアーツって何だろうと考えることがあります。単なる教養とは違う、何かそれを超えた、“自由になるための学び”という意味があるのだと個人的にはイメージしています。「自由に学べる」「学んで自由になる」って実はとてもすごいこと。中国の大学は専攻重視で教養学部がないため、余計にそう思えるのかもしれません。
そもそも、リベラルアーツは中国語にそのまま翻訳することができない言葉なのです。「自由」や「芸術」は使えないため、いわゆる「文理総合」という意味で翻訳されてしまうんですね。これでは、リベラルアーツの本質を伝え切れません。
学生にとって大切なのは、とにかくいろんなことを見て、聞いて、触れて、体験してみること。哲学やアートといった、理工と直接関係ない知識や思想を豊かにすることは、将来の仕事にも必ず良い影響をもたらします。自分が本当にやりたいことを見つけるためにも、たくさんの試行錯誤は必要なのです。
東工大リベラルアーツ研究教育院では、入学した最初の1年からさまざまな選択肢が用意されています。私の大学時代もこうだったらよかったのにと本気で思えるほど、科目もカリキュラムも充実しています。どれを選び、どう学んでいくかはみなさん次第。ぜひその特権を駆使して、自由な学びを深めていってほしいと思います。
研究分野 中国文学
2006年華東師範大学 コミュニケーション学部卒業後、上海電通に入社。2008年来日し、早稲田大学 別科日本語専修課程(現・日本語教育プログラム)を経て、2009年より東京大学大学院 中文科入学、2010年同修士課程大学院、2012年同博士課程に進学。2018年東京大学大学院 総合文化研究科 学術研究員、2019年関西外国語大学 外国語学部助教、2022年同准教授などを歴任し、2023年4月より現職。自分と同年代である「八〇後」世代作家を中心とした、近現代中国文学・文化研究を行っている。