リベラルアーツ研究教育院 News

目の前の現状を相対化し、個々人が思考できる力をつける 。知的好奇心として学ぶ歴史のおもしろさ

【歴史学】澤井勇海 准教授

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2024.11.05

澤井勇海 准教授

19世紀後半の日本と東アジアの政治・対外関係が主な専門です。大学院では最初、戦後日本の外交史を研究しようと思っていたのですが、ある大変お世話になった先生から「戦後は歴史ではない」「明治やれ、明治」と勧められたのがきっかけで、明治維新前後の時代を専門的に研究することになりました。最初はしぶしぶ候文(そうろうぶん)の史料を読み進めたのですが、いつのまにかページを繰る手が止まらなくなり、現在に至ります。私がこの先生の助言にきちんと従ったのは人生でこの一回くらいなのですが、混沌の時代こそが面白いと思う性向をきちんと見抜かれていたようです(笑)。

歴史自体は小学校の頃から好きで、サッカーをやってからそのまま泥だらけで市立図書館に行って、歴史の本を読んだりしていました。ただ生来、森羅万象に好奇心を覚えるタイプでしたし、両親・兄弟は全員自然科学系なので具体的な影響を受けたわけでもなく、とくに歴史に向かった理由は自分でもよくわかりません。卒業アルバムを見ると当時の先生から「澤井くんが歴史学者になったらその本を読みたい」という趣旨の寄せ書きがありました(本出さないと…)。過去を知りたいという人間の本能に突き動かされたというか、ある種、動物的な知的好奇心の発露だったのかもしれません。

面白そうな人は片っ端から調べる。
楽しいからこそ夢中になる歴史研究者としての醍醐味

澤井勇海 准教授

大学1・2年生の頃には、「政治学を読み破る」という日本政治史が専門の先生(最初に触れた先生と同じ方です)のゼミが面白くて、大きな影響を受けました。毎週1冊本を読んでA4用紙1枚にまとめ、3時間くらいぶっ通しで議論する形式でした。高校時代は学問や政治について議論したくても本気ではできませんでしたが、そのゼミでは好き勝手言っても周囲も応えてくれましたし、ときにはソフトドリンクも飲みながら徹夜で議論しました。自分が理想としていた大学生活だったと言えます。そこからさらに多読・乱読するようになり、研究者になる直接のきっかけとなりました。

大学3・4年からは法学部で政治学を専攻し、なかでも政治史・政治思想史系のアプローチにのめり込みました。当時は本郷の築約50年・風呂なしのアパートに住んでいたのですが、生協食堂のカレーばかり連日食べたり、大学のジムのシャワーを使ったりして、生活費を節約していました。そうして何とか捻出したお金も古本屋で散財して、しまいには電気を止められる。当時はなかなか大変でしたが(苦笑)、今となって振り返れば、これはこれで貴重な大学生活だったのかもしれません。たまの夜中に通っていたキャンパス近くの銭湯も、もう潰れてしまいました。

大学院で日本政治外交史を専攻し、先に述べたような経緯で明治をやると決めてから、とくに明治初年の外国交際を研究しました。維新政府ができ、諸外国との対外関係を管轄し始めた最初の1年半という、短いながらも激動の時代が対象です。行政機構がきちんと構築された後の時代の史料は、その意図が役人的な言語に翻訳されて表現されたりするのですが、維新直後は行政機構が未整備であったこともあり、ナマの政治が露出する局面が多い。また、当時は外務省のような専門機関も確立していないので、例えば国際法の解釈なども各々のアクターの思想や政治的思惑によって、大きな振幅が生じる。このダイナミズムがとにかく魅力的でした。

この延長線上で、給付型奨学金を獲得して各国に留学しつつ、19世紀後半の日本と中国の対外政策形成過程の比較史や、東アジアの国際法理解と西洋国際法法律家といったテーマも扱いました。今は別の時代・領域にも手を広げていて、結局戦後外交史もやっていますが、新しいテーマの一つとして、かつて旧東京工業大学に在籍していた永井陽之助という政治学者が、大学紛争にどのように関わったかということも扱っています。直観的に面白そうだと感じた人は、とりあえず片っ端から調べてみるのが私のスタンスです。史料を博捜(はくそう)して読み進め、分析し、誰も知らなかったことを知る、その行為自体が純粋に楽しいのです。

自主独立した人生の基盤となる歴史学。
ものごとを相対化できる歴史的思考を身につける

澤井勇海 准教授

歴史学を学ぶ醍醐味はいろいろありますが、自然科学が専門の学生に向けて伝えるなら、まずは目の前の「現状」を相対化するのに有用だということでしょうか。

組織に属して働いていたりすると、自身の半径1メートルの「現状」を「現実」だと思ってしまい、実際には現状追随主義に過ぎないものを現実主義だと勘違いすることが、往々にして起こります。私の大学の友人・知人は役人になっている人が多いのですが、働き始めて数年経つと、例えば公文書改ざんといった問題を私が批判したのに対して、自身の属する組織の論理を普遍的なものと思い込んで、どう見ても無理筋の反論をしてくることがありました。組織の論理と自身の思考に明確な一線を引いていないと、次第に組織と自己が同一化してしまい、組織が攻撃されると自分が攻撃されていると思い、真っ当な批判にも脊髄反射で反発してしまう。もちろんこれは、第一義的には彼ら個々人の資質や能力の問題ではあるのですが、呆れ果てると同時にぞっとしたのを覚えています。

人文社会科学は、多元的、複合的な人間社会の「現実」を、それぞれの切り口から批判的に捉えるものです。その中でも歴史学は、他の人文社会科学にとっては分析の前提となるような事象そのものを含めて研究対象とし、その事象は真か、本当に前提とするに足る確度を有しているのか、といった点から根本的に問い直すところが、アイデンティティーの一つになっています。多種多様な史料を用い、さまざまなアクターの視点を検討し、いちいち根拠を突き詰めて論理整合的に議論を組み立てる。この意味で歴史学の持つ批判的機能は、半径1メートルの「現状」を最も念入りに、かつラディカルに解体する鋭利さを持っています。その上でなお残るのが「現実」だということです。

おそらくは本学の学生も、やがて組織に入る人が多いのではないかと思います。目上の人から愚蠢(ぐしゅん)で理不尽な指令や圧力を受けることもあるでしょう。それでも、自分と組織を切り離した上で、何が確かで何が確かでないのかを、厳密に腑分けできるような思考法が身に付いていれば、現状追随主義に陥ることを最大限避けられるのではないかと思います。歴史学が夢や希望を直接的に供給してくれることはそう多くないかもしれませんが、個々人の思考の独立性を可能な限り担保することは、夢や希望を「現実」的に達成するための立脚点になるのではないかと思います。

歴史学のこのような機能は、個々人のレベルにとどまらず、政治・社会のレベルにおいても妥当する部分があるように思います。最近の世間を見ると、グローバル社会では変化は急激に生じるからなどと言って、政策や組織の決定などもトップダウンで迅速に機動的にやろうとし、それを是とする傾向があるように思います。これは一定程度妥当な向きもありますが、人間がとかく道を踏み外しがちな存在であるのは今も昔も大して変わりませんので、大きく誤った決定がときにハラスメントなどを伴いつつ拙速・恣意的に為される危険性も並行して増大することになります。

これに対して、比較可能な過去の先例を参照し対置することで、性急な決定に一度ストップをかける。その上で内容を吟味したり、問い直したり、異議申し立てをしたりして、より正当な、あるいはより悪さ加減の少ない決定を導こうとする。等閑視(とうかんし)されがちですが、この意味で広義のデモクラシーでは、むしろ決定を遅延させて冷静に吟味する時間をつくる機能こそが決定的に重要です。そのための素材と能力とを提供するというのが、政治・社会における歴史学の不可欠な役割の一つだと思います。

歴史学的な思考法は、車で言えばアクセルというよりはブレーキ、サッカーで言えばFW(フォワード)というよりDF(ディフェンス)としての機能を持っていると思います。アクセルだけあってブレーキが壊れている車は危ないし、必ず事故を起こすでしょう。アクセルが弱くてブレーキがしっかりしている車は、どこにも連れて行ってくれないかもしれませんが、少なくとも事故は起こらない。サッカーでもDFが強ければ、点は取れないかもしれませんが、負けはしません。この意味で、政治・社会でもブレーキやDFの機能が最重要ですし、その上にこそ夢や希望を「現実」的に語る、健全なリーダーシップが発達するのではないかと思います。この順序が転倒したような議論が世の中に溢れていることについては、私は憂慮するばかりです。

リアルに議論をし、知的に生意気であれ。
大学生だからこそできる経験を積むことの大切さ

澤井勇海 准教授

本学の学生は、自然科学分野のエリートになっていく人たちですから、単に科学技術の知識だけではなく、広く社会的な文脈を踏まえてものを考える能力を持つ必要があります。

本学に入学してすぐにリベラルアーツを学ぶ意味はそこにあると思います。特に「立志プロジェクト」※では、ジェンダーや、科学技術の負の側面である公害問題などを学びますが、おそらくなじみがないテーマであることもあって、クラスの中で一定数、極端かつ攻撃的な態度をとる学生が出てきます。例えばジェンダーに関する回では、そもそも構造的な男女差別なんて存在するのかとストレートに考える男子学生が一定数おり、周回遅れの理解には率直に言って面食らう部分がありました。これは年齢と経験を重ねるにつれて気づく側面もあると思うのですが、10代後半では主な経験が高校までの学校生活しかないので、リアルな実感が伴わない人もいる。SNS上などではジェンダーに関して極端な議論も目に付きますから、そういったところにも影響されて、ジェンダーの議論をすると(男性の)自分が攻撃されていると感じてしまい、反発する学生もいるのではないかと思います。
※学士課程入学直後に全学生が履修する必修科目。教養教育を、各自のゴールに向かって志を立てるプロジェクトととらえ、そのための自己発見と動機付けを行う科目

しかし、構造として極論が伸長しがちな上に、同じ見解を持つ者同士で集まれば済むSNS上のコミュニケーションとは異なり、「立志プロジェクト」ではクラスが一堂に集まり対面で議論をします。異なる見解に触れたとしても、目の前に人が実在しているとなると、少なくとも最低限度のリスペクトは必要になります。反論するにしても、一般教養を踏まえた上で、合意できるところとできないところを具体的に議論することが求められるでしょう。このような経験は大学を出る前に経験しておかないと、将来的にコミュニケーション上の大事故につながる危険性すらあります。この意味で「立志プロジェクト」は、試験には出ないかもしれませんが世間では間違いなく出ることにあらかじめ触れる機会を提供する部分もあり、極めて重要な役割を担っていると思います。

ただ「立志プロジェクト」は2カ月間だけですし、物足りない人もいるのではないかと思います。実は私の文系教養ゼミでは、私が大学時代に出ていたようなゼミをやってみたいと考えています。自然科学を専攻するけれど歴史や政治にも興味がある、議論してみたいのだけれど相手がいない、調べてみたいけれど調べ方がわからない、というようなニーズ(少数かもしれませんが…)の受け皿になる場を作りたい。学生ですし自主的に学んで議論すれば良い、下手に介入することはしない、来る者拒まず去る者追わず、そのような古き良き大学のような生活ができる場が、一つくらいあっても良いのではと思っています。

とにかくどんどん本を読んだり議論したり調べたりして、疑問を抱いたり反発したりして欲しいですね。知的誠実さをプライドとして、実存をかけて批判的にテキストと格闘したり、徹底的に議論したりする経験は、後から振り返ると、自身の夢や希望を「現実」的に達成するための大変な財産になります。もちろんこのような志向は、ある種の知的マッチョイズムの側面もありますので、そこは反省的に捉える必要があるかもしれません。取捨選択して良い部分を継承し、今の時代に合わせた場にしたいと構想中です。

最後に付け加えますと、早いうちに留学することも大切だと思います。この大学の新入生は疑いなくマジョリティー側と思って生きてきた学生が多いのではないかと思いますが、長期留学して外国人としてマイノリティー側に立って生活してみると、マイノリティーとして生きるということが知識のみならず体感としてわかる部分が大きいと思います。そうすると、外国人のみならず、他のマイノリティー属性の人たちの立場に関する想像力、エンパシーが深まり、視野も大きく広がります。エライ年長者でもドメスティックな経験ばかりの方は、無意識にうっすら差別的な態度をとってしまい、周囲を閉口させていることも多いです。単純に外国語能力などを鍛えるためだけに留学することよりも、よほど重要なことだと思います。

私が学生だった頃に比べて、今の大学は各種の奨学金やサポート体制なども充実しています。ぜひチャレンジしてみてください。

Profile

澤井勇海 准教授

研究分野  歴史学

澤井勇海 准教授

1991年、神奈川県生まれ。2013年、東京大学法学部第三類卒業。2015年、東京大学大学院法学政治学研究科総合法政専攻修士課程修了。2021年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス国際関係史学部博士課程修了(PhD in International History)。この間、北京大学歴史学系や中央研究院近代史研究所(台湾)にて在外研究を行う。東京大学大学院法学政治学研究科助教、同特任講師、日本学術振興会特別研究員-CPD、ハーバード大学ウェザーヘッド国際問題研究所ポストドクトラル・フェロー、成蹊大学文学部現代社会学科助教などを経て、2024年4月より現職。趣味は愛猫を撫でること。

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