リベラルアーツ研究教育院 News
【文化人類学・医療人類学】磯野真穂 教授
2024年4月に本学に着任するまで、前職を辞めてからの4年間はどこの組織にも属さずに在野の文化人類学者でした。その間いろいろな活動をしましたが、特に働く人に向けた文化人類学のオンライン講義は本当に多くの人たちが受講してくれました。
当時はコロナ禍で、数値やデータなど専門家の言うことばかりが聞こえてきて、その時起きている事象やコロナに関連する社会の状況についてモヤモヤしている人たちが多かった時なのですが、さまざまな講義を通じて文化人類学のものの見方は結構「使えるな」と実感することがありました。
例えば、体は3つの視点から見ることが可能など、自分の体や病気と社会との関わりを分析するためのツールを文化人類学はたくさん持っている。それを使うだけでかなり社会が見渡せるようになれるんですね。それを見渡したうえで、自分はどう生きるのか? どのような動きができるのかを考えられるようになります。ある種、専門家に奪われてしまった自分の体を自分のところに取り戻すということが文化人類学は得意だと思いました。
大学進学時はアスレチックトレーナーを目指していたので、スポーツと名のつく学科を受験しました。高校時代は部活で空手をやっていて、怪我で実力が発揮できないアスリートを、良いパフォーマンスができるようにサポートができたら良いなと思ったのがきっかけです。
進学した大学ではアスレチックトレーナーの資格は取れないことがわかったのですが、体や怪我の予防、スポーツに関することに興味があったので運動生理学のゼミに入りました。授業は非常におもしろかったのですが、学んでいくうちに違和感を覚えはじめました。自然科学の研究ではある意味当たり前なのですが、データをとるために人間は数値になり、また筋肉、筋繊維といったように体は細分化されていきます。細分化と数値化の中で、人間を全体として見る眼差しが失われる。そのように感じて、自然科学のアプローチに違和感を覚えるようになりました。
とはいえ、アスレチックトレーナーの資格は関心があったので、国家資格があるアメリカの大学に学士編入したのですが、一度抱いた違和感は拭えません。そうこうするうちに、そこのリベラルアーツの授業で文化人類学を学んだことが転機になりました。文化人類学は人間を数値化しません。研究方法も真逆で、研究者は研究対象者の生活の場に入り研究者側がそこで学ばせてもらうというアプローチ方法なんです。「こんな研究があったのか!」と、専攻を変更することを決めてそのまま大学院にも進学しました。大学院では体にかかわること、運動生理学ではできない体のことについて研究したいと思い、90年代に拒食や過食が話題になった摂食障害を研究テーマに決め、シンガポールで3カ月間フィールドワークをしました。
摂食障害については、当時の日本ではその原因について、母親の育て方が原因であるとする、“母親原因説”が根強くありました。簡単にいうと、母親が男性の真似をして外に働きに出たことで、本能である母性が発揮されず、それが娘を摂食障害に追いやるというものです。今考えると完全なトンデモ学説なのですが、その当時はまことしやかにそれが正しいとされていたのです。しかしフィールドワークを行ったシンガポールでは、そのような学説は一蹴されていました。国が違うとなぜここまで原因とされるものが違うのかを考えていくと、日本とシンガポールの政治経済的な状況の違いにたどり着きます。日本の経済成長は、男性と女性の徹底的な分業でなされましたが、シンガポールのそれは、子育てなどの家のことを保育園やメイドなどに任せ、男性も女性も外に働きに行くという形で達成されていたのです。
そこで、体と社会がどうつながっているのか?ということから文化人類学が生かせると思い、体と食から深堀りして、医療専門家が説く原因説とは違う観点から、シンガポールの摂食障害を描き、修士論文にまとめました。このテーマはずっと追究したいと考えていたので、帰国して2年ほど働いてから博士課程に進み、引き続き摂食障害について日本での調査・研究に取り組みました。
その後は、日本のダイエットの変遷、HPBワクチン(Human papillomavirus:子宮頸がん)などの健康を巡る日本の医療パニックや、さらに新型コロナウイルスに関する研究を実施しました。私の専門分野である医療人類学というのは、70年代ぐらいから欧米を中心に生まれてきた文化人類学のひとつのジャンルです。病気や人間の体を医学的、生物的に捉えるのではなく、社会との関わりの中から捉えることや、医学の知識が人間の考え方、感じ方に及ぼす影響を注目します。
医療人類学的な見方の例をいくつか挙げましょう。例えば、摂食障害に苦しむ人は、食べ物について深く勉強したゆえに、カロリーなどの情報がないと食べれなくなっています。食べ物についての栄養学的な情報を知りすぎたゆえに、“自分の感覚”で食べることを手放してしまう。新型コロナも同様ですPCR検査の結果が陽性になると、「無症状ですが治療に専念します」などと言ってしまうのはその典型でしょう。医学の知識が生活にどんどん入り込んでくる中で、身体感覚はどんどん当てにならないものとみなされるようになるのです。
なぜこのようなことが起こるのか。それは私たちの社会では、科学的なものの見方が正しいとされ、それに権威が持たされているからです。では、文化人類学者が幅広く、深く研究をしてきた、神話を大切にする狩猟採集民のものの見方は間違っているのでしょうか?そこから何か学ぶことはないのでしょうか? 医療人類学は、病気という現象を通じ、「正しさ」がどのように作られるのか、それは一体人々の考え方・感じ方にどのような影響を与えるのかといったことを、政治経済的、歴史的、社会文化的な観点から包括的に研究します。
文化人類学は人間が多様であることを学ぶ学問です。文化人類学は、文化相対主義という考え方をベースに、あれは間違っている、これは正しい、あの人たちは遅れている、自分たちは進んでいるといった、私たちが直感的にやりがちな見方を徹底的に保留します。その文化相対主義をもって、精霊を信じている人たちや、貨幣を使わない人たちの暮らし方を学ぶと、自分たちがよって立つ当たり前が見えてきます。皆さんには、自らの好奇心と文化人類学の視点を用いて、当たり前をのありかを捉え、それを批判的に捉え返すことを通じて、私とは何か、生きるとかは何かといった根源的な問いに取り組んでほしいです。
最後に、リベラルアーツは、言葉だけを聞くととっつきにくい感じがするけれど、学び出すとその面白さや、応用可能性の広さを感じられる学問領域だと思います。自分が学んだことを社会とどう接合させるか?自分が作った製品をどう使ってもらうか。そのような問いを掲げるとき、リベラルアーツの視点は欠かせないものとなるっでしょう。思いもかけないところに思考の種は転がっているので、大学時代は幅広い学問と出会い、そこから自分の基盤を時に崩し、時に構築し、未来に向かってほしいと思います。
「使ってもらえる文化人類学」を常に意識して在野にいたときから、大学の外に広がる文化人類学をずっとやってきているので、それを活動として継続していきたいと思っています。
研究分野 文化人類学 医療人類学
長野県安曇野市出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、トレーナーの資格を取るべく、オレゴン州立大学スポーツ科学部に学士編入するが自然科学のアプローチに違和感を覚え、文化人類学に専攻を変更。同大学大学院にて応用人類学修士号、早稲田大学にて博士(文学)取得。その後、早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て4年間在野の人類学者として活動。2024年より現職。
一般社団法人De-Silo理事。応用人類学研究所・ANTHRO所長。