リベラルアーツ研究教育院 News
東京工業大学 リベラルアーツ研究教育院(ILA)の連続企画「ドキュメンタリー映画の魅力」の2回目は、『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』など独自の作品で高い評価を博している、ドキュメンタリー映画監督の原一男氏をお招きし、最新作『水俣曼荼羅』(2020年)を題材に「公害について記録したドキュメンタリー映画」についてのシンポジウムを開催しました。
シンポジウムの冒頭、リベラルアーツ研究教育院の北村匡平准教授(映画学)は今回の開催目的について、「学生に原監督の作品を見せたいと思った」と述べ、さらに「東工大は水俣病事件と深い関わりを持っている。しかし来年の秋には東京医科歯科大学との統合で『東京工業大学』という名称がなくなるため、(事件との)つながりが希薄になってしまうという危機感があり企画した」と説明しました。
今回のシンポジウムには、リベラルアーツ研究教育院から中島岳志教授(政治学)、多久和理実講師(科学史)も参加し、『水俣曼荼羅』や水俣病事件について、専門分野から考察して意見を交わしました。
■ドキュメンタリー映画『水俣曼荼羅』とは
原一男監督が20年もの歳月をかけて、水俣病患者の人々を中心に、水俣の日々の営みを記録し続けた上映時間372分の大作。
水俣病が公式に確認されてから65年以上が経ち、世間的には「水俣はもう、解決済みだ」という風潮がある中、いまなお和解を拒否して裁判闘争を継続している人たちがおり、闘争と並行して何人もの患者さんが亡くなっています。
不自由なからだのまま大人になった胎児性、あるいは小児性の患者さんたちや、末梢神経ではなく脳に病因があることを証明しようとする大学病院の医師たち。『水俣曼荼羅』は、患者さんとその家族が暮らす、喜び・笑いに溢れた世界である水俣の日々を中心に、病をめぐってさまざまな感情が交錯しながら幾重もの人生・物語がスクリーン上で織りなす、壮大かつ長大な作品です。
シンポジウムの前半は、原監督の経歴や作品の解説も合わせ、北村准教授から日本のドキュメンタリー映画の歴史や時代に応じた撮影手法などについて簡単なレクチャーが行われました。原監督は1972年、『さようならCP』で監督デビュー後、革新的な手法で撮影された映画史に残るドキュメンタリー作品を発表。特に1987年に公開された『ゆきゆきて、神軍』について、北村准教授は「ドキュメンタリーという概念そのものがぶち壊されるというか、覆されるような作品」とそのインパクトを表現しました。特に撮影対象となったアナーキストの奥崎謙三自身がカメラで撮られていることに触発され、奥崎自身がカメラを意識したパフォーマンスを行うようになるという展開が実に異様で、従来のドキュメンタリー映画の手法とは異なる作品になったと述べました。さらに、撮影対象と撮影スタッフが厳密に分かれていない原監督の他の作品についても触れ、それらの先駆的な作品を捉えて「撮る側—撮られる側と固定化されていたキャメラの視点を一気に逆転させるコペルニクス的転回」という、佐藤真※1監督の言説を紹介しました。
※1 佐藤真(映画監督。東京大学在学中より水俣病の運動に関わり、香取直孝監督の『無辜なる海 1982年・水俣』の助監督を務める。1992年に初の監督作品『阿賀に生きる』を発表)
続いて、多久和講師が「東工大と水俣病事件」というタイトルで、東京工業大学と水俣病事件との関わりや、本事件において東工大が負っている社会的責任についてレクチャーしました。「現在、東京工業大学では、新入生全員が履修する『立志プロジェクト』という授業の中で水俣病事件について学び、その中では、水俣病センター相思社※2の方からその活動について直接話を聞く機会がある」と、東工大独自の授業について紹介する一方、自身も東工大出身という多久和講師は、在学時に恩師の梶雅範元東工大教授が担当する授業の中で初めて水俣病事件について学び、本事件の加害者側に東工大の卒業生や教員が関与していたことを知ったといいます。
※2 水俣病に関する調査研究を推進しその成果の普及・活用を行う一般財団法人
「今、東工大の授業で科学史を担当し本事件について教える中で、ともすればこの事件は『被害者と有機水銀を流した企業側との善悪の対立という単純な構図』と考えられがちだが、科学者としてあるいはそれを志す人間として“是”として行った行為が、最終的に大学の権力と結びついて大きな社会的問題を起こすこともある現実のむずかしさ、複雑性を学ぶことができる事例がこの事件である」とし、水俣病事件を学ぶことは学生が自分ごととして捉えることができる意義のある機会だと述べました。また、「大学のような機関は、特に負の歴史についてはリアリティーを持って過去を辿れるようなものや記録はなかなか残らない。わざわざ記録して残そうと努力する人がいないと、少し前の時代の当たり前すらわからなくなってしまう。その当時の大学の記録をたどれるような歴史資料を残していく試みを一緒にしようと学生たちに訴えるという題材としても、水俣病事件を紹介するようにしている」。そして、「歴史研究では、“オーラルヒストリー”といって、抜け落ちてしまった記録を聞き出すという方法があるが、ドキュメンタリー映画はそれに似ている部分があるかもしれない」と示唆しました。
次に政治学の中島岳志教授は原監督について「撮る側と撮られる側という2分法を超えていく表現方法をされていた方」とし、客観的に忠実に“ある事態”を描くのではなく、「私」というものがそこに明確な形で介在することを前提に、さまざまな作品を撮ってきたというスタンスが自分の憧れの対象であったと述べました。そして、それは中島教授自身の学問的な方法とも関わる問題であったとして、こう説明しました。
「ある種の科学的な学問を学ぶ上では、『私』という主観は意味がないと教えこまれることに違和感があった。政治を学ぶことを志した大学院時代に、人類学の方法を使ってそれをどういう風に明らかにできるのかを考えインドに飛び込んだ。ヒンドゥー教の原理主義のような過激な運動が拡大していくのを、当事者と一緒に暮らしながら見ていくということをやったが、ここで『私』が問題になる。その現場には『私』が存在する。そして、『私』が介在しデモの最中にカメラを向けたりしている。カメラを向けると撮影対象がある種のパフォーマンスのアリーナになっていき、撮られることを意識したデモの参加者たちが過激な行動をし始める」
「つまり、そこでの自分は透明な研究者なのに、その場の何らかの事態に対して影響を与えてしまうような主体でもあるため、あえて『私』という主語を用いて最初の本を書いた。それはやはり、私のフィルターを通じたその事態というものがどう構成されるのかという、非常に重要な意味を持っていると思ったからなんです。映画は学問とは違う世界ですが、それと同じことを何十年も前にやってこられた原監督の作品が私の背中を押してくれたわけです」
また、水俣病事件については「自分は被害者の目線から見ているっていう自意識があった」とし、と東工大着任の際「多くのOB関係者が水俣病事件に関わっている東工大への着任に躊躇する自分がいた」と個人的なエピソードを披露。「自分は加害企業の工場を門の外から睨みつけていた人間だったが、あの中に入った人たちのところに自分の身を置かないとこの問題や本質は見えてこない」と捉え直し、「『加害』『被害』という単純な2分法ではなく、この大学で、水俣病の問題を考えたいというのがある」と述べました。
原監督は、ドキュメンタリー映画を撮る時の私、撮る主体が私であるという問題について、自身初の作品である『さようならCP』(1972年)で撮影に臨んだ時「被写体となったCP(脳性麻痺)の患者のグループにとって身体障害者ではない健常者の『私』というのは、敵の存在だった」と語り、「人間として、同じ人間だからというような観点で“敵対”ということを曖昧にして撮ることはできないから、最初から“敵対”を映画の中で明確にして、その関係性をどう壊していくかということを考えた。彼らにとっての敵である私がカメラという暴力性を秘めた装置をも持っている、という考えですので、ならば、カメラの暴力性を隠すのではなく、顕(あらわ)にするようにカメラワークを駆使しよう、と考えたわけです。つまりカメラワークも非常に暴力的だった」と、原作品の独自性につながる、「撮る私」と被写体とのスタンスについて説明しました。
加害性、暴力性といった原監督のカメラワークは、3作目の『ゆきゆきて、神軍』(1987年)の被写体が「非常に暴力性を持った主人公だった」ことで変わっていったといいます。被写体となったアナーキストの奥崎謙三は天皇の戦争責任を問い、自分の思考、思想の中から導き出した新たな神の国をイメージして生み出した「神軍平等兵」として自ら行動します。そして戦争時の責任者を問い詰めていく過程の中でカメラを意識しはじめるようになり、ドキュメンタリー映画にもかかわらず自らの行動を“演出”し、カメラの前で“演技”をするように変わっていきました。原監督は、この映画を「ドキュメンタリーにおける虚構という問題を浮き彫りにさせてくれた。現代に通じる『ドキュメンタリー映画はフィクションである』という新たな見方が生まれた典型例」だと述べました。
『水俣曼荼羅』は6時間超という長さにもかかわらず、多くの観客が映画に登場する水俣病患者や家族ほか関係者に魅了され、その長さを感じさせない映画です。原監督は撮影開始のきっかけとして、原が教授として赴任した大学で、水俣病患者の運動を支援している事務局長と知り合い、その方の誘いからこの映画づくりを開始したと明かしました。当初、原監督は、水俣病事件について17本の連作を残したドキュメンタリー映画の巨頭、土本典昭監督の作品の存在が大きく、自分が水俣病事件をどう映像化すればいいか悩んだそうですが、「水俣では、国家や自治体と賠償問題訴訟を闘っている患者さんたちを巡ってさまざまな人たちが関わりながら、運動が展開され、暮らしもまた、成立していて、土本監督のように個別のテーマごとに映画を作るのではなく、そういったさまざまな人たちで形作られる運動全体、それが水俣病運動の全体なので、そのことを明解にメッセージとして出すという描き方を目指した」と説明しました。
例えば、長年水俣病の問題に取り組みながら、「末梢神経ではない。有機水銀が大脳皮質神経細胞に損傷を与えることがこの病の原因だ」と、これまでの常識を覆す新たな水俣病像論を唱える医学者の献身的なその活動を追う一方で、献体された亡くなった患者の脳を研究のために喜々として持ち帰る姿。国を相手に厳しい訴訟裁判を長年闘う中に垣間見える老患者の慎ましい暮らしぶり。師事してきた書道の先生が裁判に挑むときに、長じて強力な支援者となって行政側に対峙する教え子。不自由なからだのまま大人になった胎児性、あるいは小児性の患者さんたちの抱く恋愛感情や華やかなディズニー世界に憧れる様子。20年に渡り追ってきた水俣を生きるさまざまな人たちの、苦しんでいるだけではない、人間としての営みの様子を6時間12分で物語った『水俣曼荼羅』。原監督は「『ゆきゆきて、神軍』で抱いた“虚構”という問題が、この映画の長尺の中では方法論が消化されて実に上手く表現できたのではないかと自負している」と述べました。
さらに、「波風を立てることによって、あえてその前に存在していた秩序を描き出していく」という原監督のドキュメンタリー論に多久和講師が「大学という権力の側で歴史を研究するものとして、記録に残しづらい負の歴史についてどうやって調査し、新たな情報を引き出していけばよいのかに悩む」と質問したのに対し原監督は「ドキュメンタリーを作るうえでもそこがむずかしい」と、次のように語りました。「映画とは人間の感情を描くものである、というのは今村昌平監督から学びました。その場合の人間は庶民のことを指します。そして映画とは人民のものであるという言葉を教えてくれたのは、浦山桐郎監督です。つまり映画とは、劇映画でもドキュメンタリーでも庶民の感情、喜怒哀楽や愛憎を描くことだ。その庶民の感情はどこから発生するかというと、権力者側との関係の中で、われわれを縛っている共同体こそが感情を発する原因であると考えるならば、その感情を浮き彫りにしない限りは、権力はこんな形で庶民をコントロールしてるっていうことがリアルに描けない。そういう風に考えています」
「そこで、表に出てくる感情がないとカメラで記録することはできないので、『水俣曼荼羅』でも、それを見つけるには時間かかりました。一生懸命考えてもすぐ思いつくわけじゃないが、こちらから仕掛けることで感情が表に出ることもある。そのタイミングや撮りたいものの引き出し方については絶えずどのシーンでも考えていて、患者さんの恋愛感情の話も水俣に通い始めて3年経った頃ぐらいに撮れた」と明かしました。
また、この映画の印象的なシーンのエピソードを次のように紹介しました。「献体された一部が入れられていたのはポリバケツだったのに気づきました? あれはチッソ社(水俣病の加害企業)が自らの会社の存続のために大量生産した製品で、その産業を国が推進していたという背景があるんです。これは観客に投げかけるべきシーンなんですが、今は見る側の自由を保障する作り方でないといけないので、そこまで読み取ってくれるかどうか…。私も撮った瞬間に、そこまでパッとわかったわけではないですが、そのぐらいに、水俣病の風景っていうのは日常の中にある。よっぽど、しっかり見ていかないと発見することができない。日常生活の中における水俣病っていうのはこんな風な顔をしてるっていうことを、こちら側がどれだけ掴んでいくかということがとても大事じゃないかと思います」
『水俣曼荼羅』は、賠償訴訟に患者やその家族、支援する人々、それに対峙する国や行政など、多く人たちが描かれていますが、ほかにも水俣病発生から65年という長い年月の中で関係した、もっと多くの方々に登場して欲しかったという原監督。関係者が亡くなる中で埋もれてしまう事実も多いため、記録に残しておくべきシーンが本当はまだあるといいます。
また、話題作であった本作については続編制作の話もあり、「メディアの前で公言したこともあって、パート2を撮ることが前提となっている」。そして、「パート2は、その前の作品よりも10倍面白くないといけない」という持論からくるプレッシャーや、制作資金集めのむずかしさなど悩ましい本音を吐露するも、「庶民の感情を描く」映画づくりだから自身の超すべき目標は「小津安二郎」と告白。想定外の回答に会場中が盛り上がり、作品以上に原監督の人柄に大いに魅了されたシンポジウムは終了しました。