リベラルアーツ研究教育院 News
【現代史】池上 彰 特命教授
私は東工大で「現代史」を教えています。2012年にリベラルアーツセンターの教授として着任し、2016年にリベラルアーツ研究教育院が設立され、その年から特命教授として、一貫して現代史を学ぶ大切さを学生たちに教え続けています。
歴史を知ることは、今の社会を読み解く重要なカギとなります。ところが、高校教育で習う日本や世界の歴史は第二次世界大戦まで。戦後から現代までの歴史は学校で教えてくれないのです。つまり、戦後の高度成長期や東西冷戦やベトナム戦争はもちろん20世紀末のオウム真理教事件や21世紀初頭のアメリカ同時多発テロも、公式に教わることがないのです。いずれも現代の学生たちにとってみれば、直接知らない歴史にもかかわらず、です。この知識の空白を埋めることで、日本や世界の歴史や社会の成り立ちについて、もっと関心を持ってもらいたいと思っています。
歴史を学ぶことは、理工系の東工大生の研究姿勢や職業倫理のあり方にも直結します。たとえば、戦後日本現代史に出てくる四大公害病のひとつ、「水俣病」はその好例です。1956年に最初の症例が見つかった水俣病は、メチル水銀化合物による中毒性中枢神経疾患でしたが、当初は原因がわからず「奇病」とされました。その後、原因物質は有機水銀にあると考えた熊本大学医学部研究班は、水俣市の化学メーカーであるチッソ(当時は新日本窒素肥料)に工場排水の調査協力要請をするものの、同社はこれを拒否します。「日本化学工業協会」もチッソを守る側につきました。
このときチッソをかばってしまったのが、東工大の清浦雷作教授でした。水俣病の原因は有機水銀ではなく、腐った魚に原因があるという「アミン説」を唱えたのです。日本の理工系トップである東工大教授の見解は、熊本大学医学部の調査内容よりも、権威のある事実として流通してしまい、原因究明を遅らせる結果となったのです。その後、チッソの排水が原因だったことが判明し、政府見解が確定するのはようやく1968年のことでした。
授業でこの話をしたあとに、「将来君たちが所属する会社の周りで公害が起きたら、どういう行動をとる?」「企業に都合のいい“科学的な見解”を求められたら君はどうする?」と問いかけます。教室中がしーんとなります。その瞬間、それまで歴史の一項目としてしか認識していなかった「水俣病」が、自分自身の問題として迫ってくるわけです。
さて、東工大を目指すみなさんが、あるいは現在東工大に在籍しているみなさんが、こうした事態に直面したら、どうしますか?
東工大には、日本の理工系大学のトップ、というブランド力があります。ゆえに、そのブランド力が悪用されてしまうこともある。そんな悲劇を未然に防ぐためにも、技術者・研究者として東工大の卒業生が社会に正しく貢献していくためにも、生き方や倫理観の拠りどころとなる歴史やリベラルアーツを学んでおく必要があるのです。
私が東工大でリベラルアーツ教育にかかわるようになったきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災とその後の福島原発事故にあります。当時私は書籍の取材・執筆に専念するためテレビの仕事を断っていたので、多くの人たちと同じようにテレビの一視聴者としてあの大惨事の動向を見守っていました。世間一般の関心事といえば、やはり原発事故による放射線問題です。
ところが、テレビのニュースを見ても、専門家の解説は、もっぱら専門用語や数値を並べるだけで、原発事故の実態がどんな様子なのかとてもわかりにくい。横に並んだアナウンサーも権威のある学者の意見にうなずくだけで、かみくだいた解説をしない。こうした番組をテレビで見た多くの視聴者はますます不安になるという悪循環に陥りました。
私は実感しました。日本はここまで文系と理系の知の断絶が深まっているのかと。理系の専門家たちに「わかりやすい伝え方」が欠如していることに強い危機感を覚えました。このままではいけない。そう思っていた矢先に、絶妙のタイミングで東工大からお声がかかったのです。
還暦を迎え、これからの日本のために何かできることはないだろうか考えていた私にとって、理工系の東工大生にリベラルアーツを教えるのは願ってもないチャンスでした。東工大の学生たちはいずれ科学者や技術者となり、日本を支える存在になります。そんな彼らに、授業を通して、「伝える力」「考える力」をつけてもらう。まさに文系と理系の橋渡しを担える仕事です。
私は、センター長に就任した桑子俊雄先生、上田紀行先生のお2人に合流し、現在のリベラルアーツ研究教育院の前身となるリベラルアーツセンターに教授として着任しました。2012年のことです。東工大がリベラルアーツセンターを設立した前後から、日本中の大学で教養教育の気運が高まりました。全国の大学でリベラルアーツや教養を冠する学部を創設する動きが出始めました。メディアの世界では教養関連の本が相次いで出版されるようになりました。
背景には、私の同世代でもあるリタイアした中高年たちが、働き詰めの人生で欠けていた教養を今こそ取り戻したいという希求もあったのでしょう。学生はもちろん、親や祖父母にいたるまで、どんな世代の人間の人生をも豊かにするのが教養です。いつ学んでも遅くはない。でも、せっかくならば学生時代にさまざまな教養にふれてほしい。
リベラルアーツ研究教育院が設立する直前、私は上田先生や伊藤亜紗先生と欧米のトップ大学を視察しました。衝撃を受けたのは、世界の理工系の総本山であるマサチューセッツ工科大学(MIT)における教育のあり方です。なんと学部4年間で「最先端科学は教えない」というのです。理由は「科学や技術は先端的であればあるほど陳腐化するのも早いから」。ならば、まず知性の血肉となる各方面の教養を身につけさせるのがMITの教育方針であり、音楽教育などにも力を入れていました。すぐに役立つ知識よりもすぐには役に立たない教養こそが、長い目で見ると役に立つ──まさしくリベラルアーツの本質を衝いた発想だと感心しました。
ハーバード大学や名門女子大学のウェルズリーも学部の4年間はリベラルアーツ教育が基本。医者や弁護士など専門職を目指す人は、卒業後にメディカルスクールやロースクールで専門領域を学びます。ハーバード大学で私も講義を受けたのですが、仕組みが面白かった。まず、最初の授業では教授の話をひたすら聴く。次の授業では前の授業の内容に対する質疑応答や学生同士のディスカッションを行う二部構成となっているのです。リベラルアーツ研究教育院の「東工大立志プロジェクト」はこちらをお手本に生まれたわけですね。
立志プロジェクトは、東工大に入学した1年生が入学後すぐに受ける授業です。1回目の大講堂での講義は私が担当します。新入生たちに、「君たちは正解を見つけるのが上手だけれど、実社会にあるのは正解のない問いばかり。むしろ進んでその問いをつくる人間になろう」「高校までの教科書学習と違って、大学での研究は最先端であるがゆえに間違いもある。だから先生の言うことを鵜呑みにするな」と焚き付けます。「私の言うことも疑ってかかりなさい」という真理も込めているのですが(笑)。次の授業では、私の講義をベースに少人数でグループワークをする、というのが1セットです。私を含め全部で6人の講義を聴き、振り返って討論し、レポートにまとめ、大学でこれから学ぶにあたっての己の「志」を発表する。考える力、話す力、議論する力、疑う力、書く力、伝える力を身につけようという狙いです。
立志プロジェクトを始めてから、学生たちに変化が起きました。私の現代史の授業を受ける学生の数が急増したのです。2012年の着任当初800人以上の学生が受講希望を出した「現代史」は、私が毎年厳しく点数をつけて受講者の3割を落としたため、あっという間に受講希望者が減っていきました。それが立志プロジェクトをはじめた翌年から、ふたたび受講者数が大幅に回復したのです。相変わらず厳しく点数をつけているのにもかかわらずです。学生たちが教養の面白さや大切さに気づいた証だと思っています。
教養とは「学び続ける力」のことだと私は思っています。私の教え子たちは、卒業してからも学ぶことに貪欲です。その姿勢に応えて、卒業生や在校生を交えて、定期的に読書会も行っています。ふだん横書きの理系論文ばかり読んでいる学生たちに、縦書きの社会科学や人文科学に触れてもらういい機会になります。今ではそれぞれの現場で活躍する卒業生たちが現役学生と一緒に分厚い人文科学、社会科学を読み込んで議論する。忙しい合間を縫って毎回顔を出してくれます。
彼ら彼女らを見ていて感じるのは、リベラルアーツ=教養は、人間にとって生き方の「インフラ」であるということです。インフラがしっかりしていれば、生きる目的を見失わないし、自分の能力を世のため人のために役立てたいという志も生まれます。教養というインフラがないとどんな秀才でも崩れてしまうことがあります。
その典型がオウム真理教事件でした。事件には、東大や慶応、早稲田、そして東工大の優秀な理工系や医学系出身者が数多く関わっていました。科学の知識があり合理主義者であるはずの彼らが、なぜあんな宗教に引っかかったのか。実はオウムの教えは仏教やヒンズー教、キリスト教のおいしいとこ取りです。
彼らに宗教の素養があったら、カルトの危うさに気づき、騙されることもなかったはずです。でも、中途半端な合理主義者は宗教をバカにして学ばない。結果として、簡単にカルトに洗脳されてしまう。彼らに教養を学ぶ機会があれば、と今でも思います。
リベラルアーツは、一足飛びに身につくものではありません。ましてやすぐに役立つ学問でもない。でも、これから始まる研究職や技術者人生において必ずや自分を支え続けてくれる、強靱な根っことなります。東工大では、リベラルアーツというインフラを大学4年、修士、博士課程すべての時間でじっくり学んでもらいます。リベラルアーツ研究教育院のカリキュラムは、私の目から見ても本当に素晴らしい内容です。ぜひ、一緒に学びましょう。
研究分野 現代史
1950年、長野県松本市生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。1973年NHKに入局し、報道記者、キャスターを歴任。1994年から11年間「週刊こどもニュース」のお父さん役を務め、わかりやすい解説で人気を集める。2005年退職し、フリーランスのジャーナリストに。以降、世界を飛び回っての取材・執筆活動のほか、テレビ・ラジオ番組のニュース解説など多方面で活躍中。2012年東京工業大学リベラルアーツセンター教授、2016年より現職。名城大学、東京大学、信州大学、愛知学院大学、日本大学、立教大学、順天堂大学、関西学院大学などでも教鞭をとる。著書に『池上彰の教養のススメ』(日経BP社)、東工大講義をまとめた『この社会で戦う君に「知の世界地図」をあげよう』『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」』『学校では教えない「社会人のための現代史」』(すべて文春文庫)など多数。
※ 2024年2月21日 本文の一部を修正しました。