リベラルアーツ研究教育院 News

「世界とは」「宇宙とは」「人間とは」――本の中にはそんな話ができる友人がいる

【ドイツ近現代文学】安德 万貴子 准教授

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2020.04.28

安德 万貴子 准教授

哲学、自然科学、神学などさまざまな分野を含む
18世紀のドイツ文学

私の担当している授業は、世界文学と語学のドイツ語です。

世界文学の授業では、研究対象でもあるドイツ文学を紹介しています。

ドイツ文学の話だけではなく、まずは古代ギリシャのプラトンやアリストテレスの宇宙論や神話の話から始めます。そして、宗教裁判を受けたジョルダーノ・ブルーノや、スピノザ、ライプニッツに触れたあと、ドイツを代表する詩人ゲーテ、そして、ゲーテに影響を与えたヘルダーを紹介します。

文学といいながら、なぜ古代ギリシャの哲学・神話や宗教裁判、神学、宇宙論の話をするのか。「文学」は、時代や国や分野で分けてしまうとその姿がわからなくなると考えているからです。ドイツ文学も、ヨーロッパ文化の歴史を重層的に追いかけることではじめてその面白さがみえてくる。

この時代のドイツ文学は、哲学や自然科学、神学などさまざまな分野を含んでおり、「世界とは」「宇宙とは」「人間とは」というテーマについて長々と議論するような記述が多く見られます。おそらくそういった会話は、ほかに娯楽のない時代の普通の楽しみだったのではないでしょうか。夜みんなで集まって明かりを囲んで話をする。

たとえば、ゲーテを読む時も、ゲーテが書いたものだと有り難がって読むというよりは、友達と床に座って話していて、その友達がふと面白いことを言ってくれた、という感覚で読むのがいいと思うんです。

現代の私たちの日常生活では、友達といきなり「人間とは」という話はしませんよね。でも、この時代のドイツ文学では登場人物がお互いに「人間とは」と議論しあう。そんな話ができる相手が本の中にはいる。ものを考える時の話し相手がいる。ドイツ文学を、たとえばゲーテを、作中に出てくるファウストを、そんな「友達」と思って親しんでもらえるようにしたいな、と思っています。

ゲーテが活躍した18世紀半ばから19世紀にかけての時代は、ちょうど産業革命が始まりかけていた時期です。現代の私たちがたとえばインターネットに対して感じている、加速度的な変化への不安感が、あの時代にも共通してあったはずです。そんな時代の不安の中から発せられた18世紀の人たちの言葉は、現代と通じている部分があります。その不安を読み解くことで、人間がたどる歴史の可能性はもっと多くの選択肢があったかもしれないと想像する。そんな並行世界を仮想体験するのが文学を読む面白さでもあります。

一方、そんなふうに説明すると、ドイツ文学はヨーロッパに関する広範な知識がないと読みにくい、と思われてしまうかもしれません。でも、私自身がドイツ文学に惹かれたきっかけは、ストーリーもさることながら、文章から立ち上がってくる景色や、建物の中の空間、雰囲気の描写の魅力でした。もう一度、あの小説に出てきたあの場所に行きたい、と思う自分の感覚を大事にして読んでいます。

世界文学の講義を受講する学生の中には、文学好きもいれば、単位が必要で選択しただけ、というひともいるはずです。私としては、どちらのひとにもドイツ文学の面白さを伝えたい。そこでまず「普段どんなふうにどんな本を読んでいるか」私自身の体験も話しつつ、それぞれにふりかえってもらいます。そのうえで、ドイツ文学をふくめさまざまな文学を紹介する。すると、自分が好きで読んできた本や聞いてきた音楽とおなじように、文学作品に触れようというきっかけが生まれやすくなります。文学はどう読んでもいい。いろいろな入り口から作品の豊かな世界に触れて欲しいですね。

世界にはさまざまな文法があるという
感覚だけは知ってほしい

語学の授業ではドイツ語を担当しています。

授業ではひたすら作文を学生たちに課しています。ドイツ語には不定詞句という、主語がない状態の動詞句のような単位があるのですが、不定詞句をどんどん伸ばして文章を延々と作ることができます。受け身文も現在完了形の文もすべて、不定詞句をもとに作ることができます。また、ドイツ語の文法には動詞を一つ動かすだけで文ができあがる不思議な法則があるので、その特徴も覚えてもらいます。

限られた時間でいろいろ教えようとすると散漫になってしまうだけですから、学生たちが、せっせとドイツ語の文章をしたためることで、ドイツ語の文の特徴を体に叩き込んでもらう。文の癖までが身についたら1年間やっただけのことはあるかと思います。

学生たちにはひたすら作文してもらいますが、その裏で私が重視しているのが「文法」です。

20世紀のドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンはこんなふうなことを言っています。言葉というものがあるだけでなく、法律という言語がある、数学という言語があると。それぞれの知的体系にはそれぞれ独自の言語体系があり独自の文法がある、というわけです。たとえば、自然科学自体が一つの言語体系であり、思想体系である、というように。

文法というのはそれぞれの言語、そしてそれぞれの知的体系の法則です。いいかえれば世界観です。そして、外国語を学ぶというのは、違う文法を学び、違う世界観を自分の中に入れることです。その感覚を知ると、後戻りできなくなる、自分自身が変わってしまう。そんな瞬間を覚えるはずです。

たとえば、ドイツ語の文章や会話では「レーベン Leben」という言葉がよく思わぬところで出てきます。英語でいうと「life」に当たります。生命、生活、人生、生涯。レーベンには多様な意味が込められています。ドイツ語でよく使われる単語なのに、どうして一瞬、文脈の中で意外な印象を受けるのか。

つまり、ドイツ人にとっては、レーベンというひとつの単語が意味するもの、もし一言で日本語におきかえれば「生」としかいいようのないものに対する考えや距離が、ドイツ語と日本語ではずいぶんと違うはずなのです。この違いを感じ、知ることが、新しい言語を体得する面白さだと思います。その違いを知ってしまうと、世界の見え方が変わってしまう。隣にいる違う言語を使う人と、自分とでは、同じ場所にいながら、違う世界を見ているかもしれない。そんな面白くもおっかない感覚をぜひ、ドイツ語を学ぶことで味わってほしい。

文章そのものを面白いと感じる、
その面白さが何なのかを探求したい

私自身の最初の研究対象は、19世紀末から20世紀始めにかけてウィーンで活躍したホフマンスタールという作家です。学部での授業でたまたま彼のテキストに出会ったのがきっかけでした。

当時の私は文学少女だったわけでも、とりわけドイツが好きだったわけでもありませんでした。ドイツ語を選んだ理由も、自分の口から発声するとき、フランス語や優雅な中国語の音は想像できず、朴訥で硬いドイツ語がちょうどいいかな、という消去法でした。ドイツ文学に進んだのも、研究室の先輩方の雰囲気、場の空気がよかった。そんな素朴な理由です。

それでも、たまたま授業で出会ったホフマンスタールの文学に惹かれました。

ホフマンスタールは、自分の存在証明として、人間は言葉以外に持ち得ないということをさまざまな形で書いた作家です。たとえば彼の遺作『塔』では、王によって塔の中に閉じ込められた王子が主人公です。ひとりの教育者をのぞいて、外界と一切接することのできない状態で、王子はどうやって言葉を獲得するのか。究極の孤独な状態を想定して、ホフマンスタールは人間と言語の結びつきを描いています。

王子は最後、自分の名前を呼ぶ声に向かっていって撃たれて死んでしまいます。自分がこの世にいたことを証言してくれと、側にいた人に託して死んでいく。ある意味でものすごく青臭い話なのですが、私はこのラストシーンに心を掴まれました。なぜ、ここで心を掴まれるのか。その理由をなんとか解明し説明しようと思って研究を続けてきました。

一方で、東工大で教鞭をとるようになって、世界文学を担当することになったとき、改めてホフマンスタール以外のドイツ文学にも研究者として向かい合う必要を感じました。

限られた時間でドイツ文学を学生に紹介するなら、やはりゲーテの『ファウスト』は外せません。そこで、ホフマンスタールより1世紀ほど遡った、ゲーテをはじめとする18世紀のドイツ文学を読み込むようになりました。

例えばゲーテの世界は、言語だけの世界に閉じていない。まず、自然科学的な世界了解があって、そのうえで形而上学を展開する。最近は、ヘルダーの文章が面白くてずっと読んでいます。その面白さはどこから来ているのか、今はそこに興味を持っています。長く研究者の間で共有されてきた問題の文脈を共有しなくても感じられる面白さがあるとすれば何だろう。一人の人間が面白く感じることは、多くの人にとっても面白いことだと思いますから、何が面白いのかという輪郭をつかみたい。そして、その面白さを伝えられればと思います。

教養は「ビルドゥング」。
一人の人間をつくるという、それだけのこと

「東工大立志プロジェクト」などリベラルアーツ研究教育院とともに始まった科目は、私自身まだ、どういう時間にすれば学生にとって実りある体験になるのか、トンネルを両側からお互いに掘り進めているような手探りの状態です。

自分の大学時代は講義形式の授業が中心でした。それでも、講義を聞くだけの受け身で参加していたのかというと、全くそうではありませんでした。先生がテキストについて講義される時、先生も考えながら話されていますし、聞いている私たちもテキストについて考え、なおかつ自分の研究とも照らし合わせて考えています。

内容だけではなく、自分が論を立てる時のお手本としても考えます。頭の中では二重三重にいろんなことを考えているので、ものすごく忙しい。先生にも「ここはわからん」と頭を抱える瞬間があり、「どう思う?」と聞かれ、一緒に考えを出し合うこともあります。

今学期の世界文学では、ヘルダーの彫刻についてのエッセイを紹介しました。古代ギリシャのような彫刻を現代の人がつくることはもうあり得ないという喪失感が前提になっているエッセイなのですが、同じことを自分も思うときがある。例えば、クラシック音楽のような音楽がこの世界にもう一度生まれてくることがあるのかとか、授業でそういうふうな話を重ねて話す。すると授業の最後に書いてもらう「振り返りシート」に、力の入った感想や意見が記されるようになる。

教養という言葉は、ドイツ語だと「ビルドゥング」になります。つくる、育てることです。教養とは、一人の人間をつくること。

「人間は生を終えるまではまだ人間ではない」

これはヘルダーの言葉です。つまり「教養=ビルドゥング」は、人間が人間になっていく過程だと思います。大学もまた、その過程のひとつです。授業もさらにそのひとつです。大学という過程を生かして、自らを培っていってほしいですね。ただし、大学という場所も、大学生活という時間も、世界のほんの一部にすぎない。その感覚も持っていてほしい。

ヘルダーも、ヨーロッパ中を旅しているときに「書物がなくても学問をすることはできるだろうか」「実験器具がなくても、空や海を見るだけで自然を知ることはできるだろうか」と自己否定のような思考を繰り返しています。

大学で学ぶ自由、大学から離れて学ぶ自由、どちらも大学生のみなさんは持っています。ヘルダーやゲーテの思考の自由。それを知るためにも、ぜひドイツ文学を読んでみてはいかがでしょうか。

Profile

安德 万貴子 准教授

研究分野 ドイツ近現代文学

九州大学文学部文学科卒業後、同大学大学院人文科学研究科で修士課程・博士課程を修了。西南学院大学国際文化学科非常勤講師、九州大学文学部および高等教育開発推進センター非常勤講師を経て、2010年より東京工業大学准教授を務める。ホフマンスタールからドイツ文学に入り、現在はドイツ文学・哲学に多大な影響を与えたヘルダーを中心に研究を深めている。共訳書に『ベンヤミン・コレクション6 断片の力』(2012年、筑摩書房)。

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