リベラルアーツ研究教育院 News
【アメリカ文学・文化論】 山根 亮一 准教授
リベラルアーツ研究教育院では、主に英語の授業を受け持っています。
英語なら何でも取り扱いますが、私の専門がアメリカ文学なので、アーネスト・ヘミングウェイやケイト・ショパンなどの短編も題材にしながら、スピーキングやライティングなど、アウトプットに焦点を当てて授業を進めています。
授業スタイルは、4~5人のグループワークが中心となります。カリフォルニア州立大学フラトン校などで教員向けの研修を受け、この人数が一番気持ちよく学べるとわかりました。教員対クラス全員という授業方式では、私が圧倒的に不利になってしまうし、学生の積極性や主体性を阻害しかねない。そうならないよう、学生同士で話し合って楽しんで学ぶ形式にしています。
授業で学生に書いてもらったものは、いつも添削しています。手間のかかる作業ですが、「見られている」という感覚が学生の中に育つようになると、適度に授業内の緊張感が生まれます。
東工大の英語の必修授業は、1年次の英語第一から3年次の英語第九まであります。英語第九は、英語外部試験で一定のスコアをとることが単位取得の要件なので、英語授業の出口は外部試験結果ということになります。
しかし、もちろん英語教育の目的はそこではありません。東工大生は留学する人も多く、将来研究職や技術職に進む確率も高い。そうなると留学の申請書類や論文などを学術的な作法に則って書けるレベルが求められる。そのため授業では、アカデミックライティングについても丁寧に教えます。さらに、ほかの人の主張や説明を読み議論する力、自分の考えをまとめ伝える力も必要です。私の英語の授業は、できるだけ英語で自己主張してもらうよう授業の中で工夫をしています。
私は、議論を学ぶ場として英語教育が最もふさわしいと考えています。というのも、もともと英文学は植民地の人々の教育に活用されてきましたし、アメリカでも反共産主義的な思想の普及に文学が使われてきた文化冷戦の歴史があります。つまり、現在の様々な領域における国際的なスタンダードや価値観が成立する背景に、あるいはそのすぐ近くに英米文学があるのです。英語空間に参入するということは、そうした価値形成に関わることと同義的です。だとすれば、インプットと同等かそれ以上にアウトプットが重要に思えるはずです。
大学院生を対象に、アメリカ文学の授業も持っています。
先述のようにとりわけ冷戦期以降のアメリカでは政治と文学が無関係ではありませんでした。今もアイデンティティポリティクス、つまり人種や民族など特定のアイデンティティを持つ集団が権利や承認を求めて起こすような政治活動に、文学が寄与することが多くあります。
アメリカ文学を学ぶことは、社会の中の自分、つまりどういうネットワークの中に自分がいるのか、ということを考えることに通じるのです。世の動きや繋がりの中で自分はこれからどうするのか、一生かけて解くべき課題を得るのに適した学問だと思っています。
私自身は、アメリカ文学の中でもウィリアム・フォークナーという20世紀に活躍した作家と、雑誌や書籍上で彼のような作家がどのような見られ方をしていたのかを論じるプリントカルチャー論を主に研究しています。作品そのものだけでなく、誰が何についてどう批評してきたのか、文学批評史についても研究対象にしています。
私は1980年生まれで、運良く65歳の定年を迎えられるとしたら、その時は2045年。第二次世界大戦終戦から100年にあたる年です。その年までに、日米の文化と政治を整理し世の中に発信できるようにしていたい。それはこの時代を生きる米文学者である私のミッションだと認識(もしかしたら勘違い)しています。
しかも、私はフォークナーを研究している。フォークナーは南部人、つまり南北戦争で敗れた側の人間です。1949年度のノーベル文学賞を受賞したのち、この南部作家は1955年に日本の長野に来て、「同じ敗戦国の作家として、日本の作家も私のように傷から立ち上がり文学をつくっていくだろう」と日本の文学界を鼓舞しました。大江健三郎や中上健次は、フォークナーに影響された作家として有名です。
それゆえ冷戦期の文学と政治を考えるには、フォークナー研究がもっともふさわしいと信じて、研究を進めています。
マサチューセッツ工科大学がリベラルアーツ教育に注力していることは有名ですね。海外では、リベラルアーツの必要性は当たり前のこととして根付いていて、中でも文学はリベラルアーツの重要な科目なので、政治や経済などの他分野や生活の中に入り込んでいる。ジョン・F・ケネディのスピーチライターを務めた歴史家アーサー・シュレンジャーは、詩人のウォルト・ホイットマンの作品などを読みながら政治的な本を書きました。文学、政治、歴史は、それぞれ別のことではなく繋がっていて、それらを学ぶことは世の中のことを知るのみならず、それを動かす可能性も持っているのです。
海外と比較すると日本ではまだリベラルアーツは根付いていません。それは、一つに文学が重きを置かれていないから、そして文学批評の伝統がないからだと、私は考えます。日本人は印象的な「評論」はしても、具体的な根拠や視点を用いて論じる「批評」はしてこなかった。その結果、クリティカルに考えること、議論すること、自分の意見を持つことが苦手になっています。批評理論が根付いてこそ、日本の民主主義は成熟すると私は信じています。
東工大ではリベラルアーツのコア学修科目が必修であり、私も「東工大立志プロジェクト」の授業を受け持っています。議論に必要な情報をインプットしたうえで、できるだけ自由に意見を言えるような雰囲気をつくることに成功した時は、学生から「好きなように考えさせてくれた」「自由にしゃべることができ楽しかった」という嬉しい言葉をもらいます。しかし別の見方をすれば、そうした言葉は、考えたことをそのまま発信できる環境が、学生にとってこれまでいかに少なかったのかを示しているように思います。
学生側に更なる向上の余地があるとすれば、それはグループ・ディスカッションではまだあたりさわりのない評論が多く聞こえるという点です。立志プロジェクトに限らず多くの授業で、発表や論文の体裁に気を取られているため、あるいは間違えないことを言おうとするため、示唆に富む主張に至っていない様子が見て取れる。もっと洗練された批評を生むためにどうしたらいいか、今後はディベートなども取り入れつつ、私も学生と一緒に探り成長したいと思います。
ときどき自分の行き先を他人の考えに委ねようとする学生を見ると気になってしまいます。ほかの人と同様にゼミに入ってさえいれば、あるいは大学院に行ってさえおけば大丈夫だろうと考える。そんな人こそ、ぜひ自分を不安に追い込んでほしいと思います。
自分の考えを持つべきだということは、別に最初から立派な動機を持つべきだという意味ではありません。厚顔にも私自身を引き合いに出すのですが、私は大学院の修士課程の最中に、プロバスケットボールのお気に入りのチームの試合を見たいという理由だけで、留学先をアメリカのインディアナ大学ブルーミントン校に選びました。そこが優れた文学研究者を多く排出した大学であると知ったのはだいぶあとで、当時は何の情報もないままインディアナ州に行ったのです。到着後に泊まる宿も予約していなかったほどです(笑)。
行ってみると、とにかく田舎で見渡す限りトウモロコシ畑しかありませんでした。そこでさらに不安にかられ、必死で勉強したし、自分の存在の意味を模索した。自分は何のためにいるのか、何をするのか。そこでは自分で考えるしかないんですね。そうした不安を経験するからこそ自らの存在意義をより深く考えるし、主体性を創り出すことができます。
その葛藤を経たか経ていないかで、志の高さは全然違う。今、経済的にも技術的にも落ち込んでいる日本の現状を打破できるのは、葛藤を経験した志の高い人です。自分を追い込めるのは、若いうちだけ。東工大生がそれをできたら無敵だと思います。
研究分野 アメリカ文学・文化論
1980年、山口県生まれ。大東文化大学大学院、イギリス エディンバラ大学大学院、慶應義塾大学大学院で研究を重ねる。2011年、日本アメリカ文学会新人賞受賞。2014年、慶應義塾大学で博士(文学)号を取得。2015年に首都大学東京都市教養学部人文・社会系助教に就任。2018年より現職。専門はアメリカ文学・文化論。特にウィリアム・フォークナーを中心としたアメリカ南部文学とプリントカルチャーに詳しく、American Studies Association、 Modern Language Association、アメリカ学会、日本ウィリアム・フォークナー協会、日本アメリカ文学会、日本英文学会に所属。