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川名晋史准教授 新著『基地の消長1968-1973』 研究成果に各メディアが注目

在日米軍基地をめぐる米国側の政策決定過程が初めて明らかに

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2020.09.18

2020年6月、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院の川名晋史准教授の研究成果が『基地の消長 1968-1973―日本本土の米軍基地「撤退」政策』(勁草書房、2020年)として発表されました。この研究成果がいま各種メディアで報じられ注目を集めています。

『基地の消長 1968-1973―日本本土の米軍基地「撤退」政策』
『基地の消長 1968-1973―日本本土の米軍基地「撤退」政策』

『琉球新報』2020年6月26日付1面
『琉球新報』2020年6月26日付1面

研究内容は、『琉球新報』(1面トップ、2020年6月26日付)他の新聞で取り上げられ、『朝日新聞』の書評サイト「好書好日」(2020年8月27日付)を始めとする数多くの書評欄で紹介され、高く評価されています。

川名准教授の研究成果

在⽇⽶軍基地、とりわけ⽇本本⼟の基地をめぐる⽶国側の政策決定過程にフォーカスした学術研究は多くない。研究者にとってその障壁となっているのは基地に関する資料やデータの制約である。周知のように、⽶軍基地に関して公開される⼀次情報は少ない。ましてそれが⽶国内部の、とりわけ国防総省や軍部の意思決定、あるいは連邦議会の⾮公開聴 聞会等にかかわるものであればなおさらである。⽶国の公⽂書に関していえば、国務省関連、たとえば基地の問題をめぐる⼤使館と本省のやり取りなどは公開されているものも少なくない。

ところが、国防総省や軍部のものとなると事情は⼤きく異なる。たとえば、核兵器の所在地を⽰すような機密性の⾼い基地関連資料は、⽂書作成から30年以上が経過しても⾮公開のままである。仮に⼀旦公開されても、それが⽶国の安全保障に重⼤な影響を及ぼすと判断された資料は再び⾮公開となる。稀に重要な資料が⾒つかっても、それだけでは到底、前後の⽂脈がわからない。僅かな痕跡を辿りながら、気の遠くなるような歴史を紡いでいくより他にない。

川名准教授

本研究はそこに挑んでいる。ターゲットは基地政策のキープレイヤーである国防総省と軍部の認識である。繰り返せば、それはこれまでほとんど明らかにされてこなかった。本研究は⽶国⽴公⽂書館の史料を中⼼に、⽶国の外交・安全保障政策分野の⼀次史料を収めたデータベースや、すでに刊⾏された戦後⽇⽶関係の⼀次史料集の助けを得ながら、60年代後半から70年代初頭にかけての⽶国の基地政策の決定過程をつまびらかにしたものである。

本研究の具体的な発⾒(及び⼀部含意)は次である。

  1. 1.基地は⽇本を直接に防衛(defense)するために存在するのではない。⽶軍は⽶軍基地を保護(protect)するために存在する。これが当時、軍の統合参謀本部 (JCS)が正式に承認していた戦略である。このことは⽇本政府はもちろんのこと、 ⽶国議会すら知るところではなかった。
  2. 2.基地の移転や閉鎖等の決定過程に⽇本政府はほとんど関与していなかった。⽇本側がその中⾝を知るのは、いつも⽶国側の決定⼿続き(すなわち、国防⻑官や国務⻑官による計画の承認)が完了した後だった。⽇本政府は⽶国が決定した政策を国内で調整し、実⾏する主体だった。
  3. 3.東京(横⽥)の戦闘機は、71年に沖縄(嘉⼿納)に移転した。それは戦略上の理由によってではなく、当時の⽇本政府が抱いていた⽶国からの「⾒捨てられ」の不安(⾸都圏からの⽶軍撤退に対する危機感)を解消するための政治的措置だった。当初、⽶本⼟、もしくはグアム等への移転が計画されていたが、より⽇本本⼟に近い沖縄に変更された。
  4. 4.米国は本土復帰前の沖縄を日本本土で政治的に問題のある基地の収納先(repository)と位置づけていた。本土基地の沖縄移転は、沖縄の本土復帰前(69年から71年のあいだ)に、駆け込み的に行われた。それは米国側にとっては基地移転にかかる政治的費用の節約を企図したものだった。
  5. 5.人々の反発が大きい基地ほど、軍はその返還をできるだけ後回しにしようとした。人々が反対すればするほど、「返還」がもつ政治的価値が高まることを軍部は知っていたからである。実際に、厚木(神奈川県)、水戸射爆場(茨城県)、板付(福岡県)の返還は日米間の交渉カードとして用いるために長く返還が据え置かれた。このことは今日の沖縄での基地問題(普天間基地の返還)に一定の政策的含意をもつ。

(川名晋史)

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