リベラルアーツ研究教育院 News
【文学】磯﨑 憲一郎 教授
東工大では文学を教えています。
といっても、私は商学部の出身で、文学を学んできたわけでも修士博士を修めた研究者でもありません。授業では、アカデミックな文学大系や知識の伝受ではなく、実作者の立場から「小説とは何か」を学生のみなさんと考えていきます。学部1年生向けの「文学A」では、毎回授業のはじめに、音楽や絵画、映像作品などを見せたうえで、小説という表現形式と比較し、小説の独自性を分析・考察していきます。
授業を通じて、私が学生たちに伝えたいのは、小説に正解はない、ということです。
音楽の授業で、モーツァルトの交響曲を聴いて、あるいは美術の授業でセザンヌの印象画を鑑賞して、「さて作者はこの作品で何を伝えたかったのか、30文字以内で述べなさい」などという問題は出ませんよね。でも、中学や高校の現代国語の授業では、小説を題材にして「正解」を求めさせる設問がしばしば登場します。大学の入試問題も然りで、私の小説も使われたことがありますが、書いた本人にも、正直どれが正解かわからなかった。「傍線部で作者が伝えたかったこと」の選択肢なんて、どれを選んでもいいのですから。
面白いことに、私でも解けなかった問題を東工大生に解かせてみると、みんな見事に正解するんです。学生たちは、小説を理解しているわけではないけれど、消去法的に正解へたどり着くテクニックは身につけている。こうしたテクニックの伝授が今の国語教育をつまらなくしている原因なのかもしれない、と私は思っています。
小説という表現は、読んでいる時間の中にしか存在しません。文章を読み進めている最中に湧き起こる感情こそがすべてであり、そこに正解も不正解もないのです。
いい例が、カフカの『変身』です。主人公がある朝起きたら巨大な毒虫になっていたシーンから始まるこの作品は、不条理文学の金字塔などと崇められていますが、実際に読んでみると笑わずにはいられないような、おかしな場面の連続なんです。
写実主義文学で知られるフローベールの『ボヴァリー夫人』は、全編を通してひたすらエンマ・ボヴァリーの美しさを讃えている。読んでるほうが呆気にとられるほどです。でも、それが小説のおもしろさでもある。サッカーのファインプレーやロックミュージックのフレーズに痺れるように、小説の一文一文に触れる面白さや驚き。そういう感覚を学生たちと共有していきたいと考えています。
私は小説を書くことを生業としています。でも、思春期の頃は小説なんて目もくれず、音楽ばかり聴いていました。そんなロック少年だった私に、小説のおもしろさを教えてくれたのが、中学生のときに読んだ北杜夫さんの『船乗りクプクプの冒険』であり、社会人になって初めて手にしたガルシア=マルケスでした。『百年の孤独』は通勤中に読み始めたら止まらなくなり、そのまま会社を休んでしまったほどです。そこからいろいろな小説に手を出すわけですが、なかでも小説家の保坂和志さんとの出会いは大きかった。作品のファンになってから、保坂さん本人との交流も生まれ、ついには勧められるままに小説を書くようになってしまったのですから。
私が小説家としてデビューしたのは、40歳を過ぎてからです。商社勤務だった私は、二足のわらじ生活を始めます。最初は不安もありました。でもやってみてわかったのは、サラリーマンも作家も、大事な場面では人間のコアな部分をさらけ出さねばやっていけない、という意味では同じということ。何が正解かわからないなかで、自分が最善だと思った選択肢を選び続けていくという作業は、どちらの仕事にも共通しています。だから両立はできる。そう覚悟を決めて10年近く商社マン兼作家を続けてきたんですが、あるときふと気づいたのです。
自分は、たまたま小説の大きな流れの中に取り込まれて、北杜夫、ガルシア=マルケス、保坂和志という作家に導かれて、ここまでやってきた。ならば、いつかは私が次の世代へのたすきを渡していかなくてはいけないのではないか、と。
もし私の小説を読んで、小説の面白さに気づいて、自分でも書き始める人が出てきたら、それだけで小説家としての使命は果たしたといえる。学校の現代国語なんかつまらないと思っている若い人にこそ小説の面白さを伝えられたら、私を運んできてくれた小説という大きな流れに、少しは貢献できるかもしれない──。そんなことを考えていた頃に、東工大からお話をいただき、今に至っているという次第です。
私がサラリーマンを辞めて東工大で教えるようになったのは、2015年の10月からです。当初は大学院社会理工学研究科の価値システム専攻に所属し、翌2016年からは、誕生したばかりのリベラルアーツ研究教育院に所属しています。「東工大立志プロジェクト」や「教養卒論」などの授業も、初年度から担当することになりました。最初はこういうやり方があるのかと面食らいましたが、立志プロジェクトのような正解のない問いを学生に考えさせる授業は、教えているほうも楽しい。試験でいい点を取ることが勉強だと教え込まされてきた彼ら彼女らには、とても刺激になっているのではないでしょうか。
立志プロジェクトの演習で私が新入生たちに必ず言うのは、「建前めいた話はやめてくれ」ということです。東工大生には優等生が多いので、問いに対して教員が喜びそうな回答を用意してくる子もいるんですね。
でも、私には通用しません。私も本音で語るから、学生たちも建前ではなく本心を伝えてほしい。真の学びはそこから始まると思うのです。教養卒論も同じで、学生たちには自分が本当に書きたいものをテーマに選ばせています。興味のないことを1万字も書くのは苦痛でしかないからです。その代わり、自分がこれだと思ったことは徹底的に調べて書くよう指示し、学生たちを図書館に連れ出したりしています。
書くというのは孤独な作業です。もちろん、互いに査読し合うピアレビューも重要ですが、ひとり孤独に没頭する時間とも向き合ってほしいのです。
実際に書かせてみると、思わぬ喜びに出会うこともあります。「文学C」という授業では掌編小説を書く課題を出しているのですが、もしこれが中編小説だったら新人賞の最終選考に残ってもおかしくない作品を書いてくる学生が、毎年クラスに1~2人はいるのです。文学賞の選考委員をやっている私が言うのだから、嘘ではありません。理工系の学生でありながら、これはなかなかの確率です。でも、考えてみると、理系出身の作家は多いんですよね。北杜夫さんや渡辺淳一さんは医学博士だし、池澤夏樹さんは物理を、川上弘美さんは生物を学ばれていた。東工大の卒業生には吉本隆明さんもいらっしゃいます。実は理工畑の人のほうが、文学に対する変なリスペクトがない分、より自由な発想で文章を読んだり書いたりすることに長けているのかもしれませんね。
東工大生には、一芸に秀でた人が多いという印象があります。人によっては、自分の研究や専門は徹底的に究めるけれど、他のことにはあまり関心がない。でも、それでいいんじゃないかと私は考えています。リベラルアーツや教養というのは、そういう尖った部分を丸くするような教育だと思われがちですが、別の見方もできるのではないでしょうか。つまり、尖った部分をより尖らせるという方向性です。無論、視野が狭くなってしまっては元も子もないのですが、一方で尖りきった頂点に立つことで開けてくる広大な視界というのもあると思うのです。
学生のみなさんには、「この分野でだけは絶対に負けない」という強みを大事にしてほしい。東工大は、それをより鋭く磨くことのできる学びの場です。この大学で自分のやりたいことにとことん取り組み、突き詰めていくことで、ぜひ文字通りのリベラルアーツ=“自分を正しく自由にする技”を身につけてもらいたいと願っています。
研究分野 文学
1965年千葉県生まれ。1988年早稲田大学商学部卒業、三井物産入社。40歳を前に、作家・保坂和志氏の勧めにより小説を書き始め、2007年『肝心の子供』(河出書房新社)で文藝賞を受賞、文壇デビュー。2009年『終の住処』(新潮社)で芥川賞、2011年『赤の他人の瓜二つ』(講談社)で東急文化村ドゥマゴ文学賞、2013年『往古来今』(文藝春秋社)で泉鏡花賞をそれぞれ受賞。2015年9月、27年勤めた三井物産を退社し、同年10月より東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻教授に。2016年4月より現職。他の著作に『眼と太陽』『世紀の発見』(河出書房新社)、『電車道』(新潮社)、『鳥獣戯画』(講談社)『金太郎飴 磯﨑憲一郎 エッセイ・対談・評論 2007-2019』(河出書房新社)などがある。