リベラルアーツ研究教育院 News
【計量・数理社会学】毛塚 和宏 講師
私が担当している授業は「統計学」です。
コンピュータが普及し、ビッグデータ時代になった現代において、あらゆる分野で「統計学」はもっとも必要とされる学問のひとつです。そんななか、私が扱っている社会科学における「統計学」では、平たくいうと、さまざまなデータを通して社会を見ることを教えています。現在学部生の1年生から4年生までさまざまな角度で「統計学」の授業をやっていますが、この授業を全部受けると、世論調査や社会調査といわれるもの、たとえば「内閣の支持率」といった数字が新聞などに出たとき、どのように解釈すればいいのか、統計データの読み込み方、扱い方が理解でき、分析できるようになります。
東工大の学生に「統計学」を教えていて受けた印象は2つあります。
1つ目は「統計学」は数学の一種なので、数学が得意な東工大生は計算方法を教えたら、計算自体はすぐできて「結果」を出すことができてしまう、ということ。
2つ目は、約半数の東工大生が「結果がでました」で終わってしまうタイプが多いことです。得られた結果から世の中を見ようとしないで、満足してしまう。
「統計学」は数学を利用しますが、結果をはじきだしておしまい、ではありません。むしろ結果を出してからが、本番です。私たち研究者は、統計を使って得た結果が社会にどんなインプリケーションを持つか、つまりその概念が社会にどのような影響をもたらすかについて、考えます。
計算し終わった後にそこまで意識が向く学生と、向かない学生に分かれてしまうんですね。数学が得意な東工大生にこそ、私はぜひ、統計学を通じて世の中に目を向けてほしいです。自分がいま計算したことが「社会のどういう側面を捉えているのか?」と考えられる人間になってほしいと、東工大生に期待しています。
実は、「統計学」は、単品では何もできません。
「統計学」では集めたデータをインプットして、統計処理してアウトプットします。ただし、ここで終わりではありません。出てきた統計をどう解釈するかが問われます。統計の解釈に、実はものすごく必要なのが“教養”なのです。少々乱暴に言ってしまうなら“教養”がなければ統計学は学問になりません。統計をとった分野に対する知識や教養がないと、ただのグラフ、ただの表で終わってしまうのです。
その理由でも、統計学を学ぶ者として、理数系の東工大にリベラルアーツ研究教育院が誕生したのは画期的なことだと思っています。理数系の学生たちがより多様な教養科目を主体的に選択できれば、彼らはより豊かな想像力や教養を身につけることができるはずです。社会学者は「社会学的想像力」という表現を使います。言い換えれば、どれだけ多様な人たちのことを想像することができるかということです。そして、社会科学で統計を活用にするにあたっては、まさに「社会学的想像力」を身につける必要があります。
『統計学が最強の学問である』という本が数年前にベストセラーになりました。統計学の研究者としては、「その通り!」と言いたいところですが、統計学は、単体では最強ではありません。あえていうならば単体では最弱の学問なのです。
必要なのは、その統計データからどんな考察を導き出すか、という力が必要となります。私の講義では、用意されたデータで小難しい計算する、ということからはあえて始めません。むしろ計算のために必要なデータを集める「社会調査」とはどんなものか、についての講義を行います。「社会調査」とは、社会と社会に暮らす人々を調べてデータを得る手段です。
たとえば、社会調査を教える統計学の授業では「『草食男子』の実態を政府の依頼で調査をする」という課題を出します。「草食男子」は、その発案者であるコラムニストの深澤真紀氏の書籍『平成男子図鑑』によれば「もてないわけではないのに、恋愛にもセックスにもがっつかないで淡々と女性に向き合うイマドキの男子」と説明されています。こうした前提のもとで、誰に対して、どんな質問をすればいいのかなど、調査の設計を学生たちにしてもらいます。
学生の出した調査対象の選択方法を見ると「街頭アンケート」で調査するという意見が多い。街頭アンケートでランダムな調査ができると思っているわけですね。実際には、それでは偏った調査結果しか出ません。街頭アンケートは実施場所で全く異なる結果が出てきます。たとえば、池袋「だけ」で実施したら? 新宿「だけ」で実施したら? 政府の要望が「日本全体の実態が知りたい」のであれば、とても偏りのある調査になってしまう。
また、「男子校出身かどうか」を男性に尋ねて「男子校出身者ならば草食男子」と判断する、という学生もいました。男子校出身者がみんな草食男子のわけはないですよね。
こうした統計データをとる作業を通じて、社会調査の設計の難しさや、対象者の選択の重要性、測定しづらい意識と行動といったものがあることなどに気がつくことが、統計を学ぶ上で役に立つのです。
また課題を進める中で気になるのは、学生の多くが調査方法や定義に対して“正しさ”に固執する強迫観念を持っているということ。私は、この強迫観念を、人気漫画『名探偵コナン』の決め台詞を引用して「コナン病」と呼んでいます。
『名探偵コナン』の劇場版では、主人公の少年探偵コナンが「真実はいつもひとつ!」とオープニングシーンで叫ぶのがお決まりです。みなさんも聞いたことがあるでしょう。
そして、東工大生の多くもコナンのように「この世にはたった一つの“真実”が存在していて、たった一つの正しい方法によって到達できる」と思ってしまうきらいがあります。漫画の犯人、数学の解答、自然科学の法則のように、正答は1つしかない。もしかすると理系の人たちが思い込みやすい考え方かもしれません。
けれども、実際の社会は、さまざまな変数があり、真実が1つとはとてもいえないことばかりです。統計学を通じて社会を知る、ということは、真実は1つとは限らない、という現実を知ることでもあるのです。
授業で扱うデータから、1年次の学生たちの多くが最初に受ける印象の一つは「朝食を食べる人は、頭がいい」です。この「朝食と成績の関係」における統計データでは、朝食を食べている人ほうが2.5倍、成績の上位50%に入りやすい。ここで分かることは「朝食を食べていた人のほうが、統計的に成績が高かった」という事実です。授業では、この統計に基づいた事実からどんな分析が可能か東工大生に聞いてみました。
まず「朝食を食べると頭が良くなる」と因果関係を類推し、「きっと食事で脳が活性化するからだ」と科学的な説明をする学生がいます。農林水産省の資料にも同じようなことが書いてあり、「朝食をきちんと食べましょう」というスローガンが出ているので、素直な人はこれで納得してしまうのかもしれません。
一方、「やっぱり朝食が大事なんですね」……これは素直な人の意見です。意見というよりは感想ですね。
さらに「僕は朝ごはんを食べてなかったけど、東工大に入学できました。だから朝食を食べたから頭がよくなるわけじゃない」……これはひねくれた超素直な人の意見ですが、実は結構ポイントを突いている。なぜでしょうか。
朝食を食べた人に成績上位者が多い、というのがこの統計データの「結果」ですが、だからといって、朝食を食べると成績が上がる、頭が良くなる、と言えるのか。必ずしもそうとは限らないからです。ここで多くの人が、統計データを見て「相関」と「因果」を混同してしまう。
朝食を食べる人に成績上位者が多い、という場合、「朝食を食べること」と「成績が上位である」ということに「相関」関係があったとします。でも、「朝食を食べると成績が上位になる」と解釈するのは総計です。それは「相関」ではなく「因果」関係だからです。この調査だけでは、こうした因果関係があるかどうかはわかりません。
そこで、想像力を発揮してみます。
子供が朝食を食べる家庭は、母親が専業主婦である可能性が高い。この時代に母親が専業主婦である家庭は相対的に裕福である可能性が高い。となると子供を塾に通わせたり家庭教師をつけたりするなど教育投資をしている可能性が高い……、という具合に因果関係については別のファクターがあるかもしれない、と想像してみる。
もしそうならば、朝食を食べる子に成績上位者が多いのは、親が教育投資を行い、子供がたくさん勉強しているから、とごく当たり前の話かもしれないのです。そういう家庭は朝食をちゃんと出している比率が高い。だから統計データ上は朝食をとることと成績上位であることに相関が生まれている、ということなのかもしれないわけです。こうした “疑似相関”は統計をとるといくつも出現します。
たとえば、月別の溺死者数とアイスの一世帯あたりの消費量には相関関係があります。
まず、アメリカの場合、溺死する人の多い月は一世帯あたりのアイス消費量が高くなります。では、因果関係はあるのか? あるわけがないですよね。夏の暑い時期にプールや海や川に遊びに行く人が増えるため溺死者数が増える。そして夏の暑い時期はアイスの消費量が増える。ただそれだけの話です。アイスを食べなくなれば溺死者数が減るのか? そんな因果があるわけはありません。
一方、アメリカでは “正の相関”になるこのケースが、日本では逆に“負の相関”になる。日本で溺死者数が増えるのは、なんと夏ではなく冬なんです。どうしてだと思います? 答えは日本人のお風呂好き。日本の場合、気温の低い時期に風呂に入った高齢者がヒートショックを起こし溺死する数がものすごく増えるのです。
ここまで推理できる学生は、約170人のクラスの中で1人いるかどうかですね。
私自身の研究では今、社会調査のデータを使って「夫婦の親密性」に関する計量分析をしています。「夫婦の親密性」について、ともにとる食事や会話といった相互行為の蓄積に着目して統計データをつくっていきます。そのうえでこうした「夫婦の親密性」が、夫婦間のお互いの満足度、家事分担、育児、介護などにどう影響するか、といった分析を行っています。
私自身はもともと、数学を活用して社会のさまざまな事象を分析したいという欲求から、数理社会学や計量社会学という分野にたどり着きました。ただし、高校は外国語科で大学は基幹理工学部でした。そして大学院では修士博士とも文学研究科に所属していました。つまり文系と理系を行ったり来たりしてきたのです。
そのおかげで気がつけたことがあります。文字や文章と同様、数学や統計も、伝えたいことを表現するための強力な道具である、という真理です。国語では文章を使って表現し、理科では温度計という道具と使って、温度を測ります。「統計学」という道具は、まさに理系と文系をまたぐことができます。そしてその活用には「教養=リベラルアーツ」が欠かせません。
東工大生のみなさんには想像力というスキルを持ち、「統計学」という道具を使いこなすことで、これからの自分の研究、そして将来やりたいことを表現できる大人になってもらいたいですね。
研究分野 計量・数理社会学
1989年生まれ。早稲田大学基幹理工学部数学科卒業 <学士(理学)>、東北大学大学院文学研究科博士前期課程修了 <修士(文学)>、東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了 <博士(文学)>。2018年から現職。数理社会学会論文賞の受賞論文に「下降回避か, 単純進学か:教育達成の階層間格差における下降回避仮説の検討」『理論と方法』Vol. 28, No.2。