応用化学系 News

世界最高レベルの素粒子ラジカル捕捉効率を示す分子を発見

多環芳香族炭化水素 (PAH)の高周期類縁体が示す新たな機能

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2025.01.30

ポイント

  • ミュオニウムを捕捉して生成した常磁性分子の高エネルギー構造をミュオンスピン回転・共鳴分光測定によって同定
  • PAHのパイ電子系の拡張が、ミュオニウム付加効率の向上に寄与すると考察
  • 宇宙線ミュオンを利用した機能性有機分子を創り出す新技術の開発に期待

概要

東京科学大学(Science Tokyo) 物質理工学院 応用化学系の伊藤繁和准教授(応用化学コース 主担当)らの研究チームは、4個のベンゼン環が融合したテトラフェンのうち1個の骨格炭素をリンで置き換えた化合物であるホスファテトラフェンにミュオンビームを照射すると、ミュオンと電子から構成される“軽い水素原子”に相当するミュオニウム(Mu = [µ+e])が極めて効率的に捕捉され、対応する常磁性分子が生成することを明らかにしました。

有機分子の溶液試料を用いたミュオニウム捕捉反応をミュオンスピン回転・共鳴(µSR)分光測定[用語1]を用いて観測する場合、通常は0.5 M程度 (1 M = 1 mol/L)の濃度が必要とされていましたが、今回の研究で用いたホスファテトラフェンの場合にはその10分の1程度の低濃度試料でも、高エネルギー状態にある常磁性ミュニウム付加体の存在をµSRによって明確に観測、同定することに成功しました。この実験結果は、素粒子ミュオンから生じたラジカル種であるミュオニウムとホスファテトラフェンがほぼ拡散律速の極めて大きな反応速度で常磁性種を与えることを示唆しています。この成果は、常に地上に降り注いでいる宇宙線ミュオンと有機分子の相互作用を利用して新しい機能性をつくり出すという、究極のものつくり技術につながる可能性をひらくものです。

本研究成果は、東京科学大学 物質理工学院 応用化学系の伊藤繁和准教授、カナダTRIUMFのResearch ScientistであるIain McKenzie(イアン マッケンジー)氏らによって行われ、1月7日付の「Scientific Reports」に掲載されました。

2024年10月1日に東京医科歯科大学と東京工業大学が統合し、東京科学大学(Science Tokyo)となりました。

希薄試料溶液で観測された素粒子ラジカル反応

希薄試料溶液で観測された素粒子ラジカル反応

背景

ミュオン(µ+)は、スピンが2分の1で質量がプロトンの9分の1のレプトン族第2世代素粒子で、サイクロトロンやシンクロトロンといった加速器によって発生させた陽子ビームを炭素やベリリウムといったターゲット元素に衝突させると生成するパイ中間子が崩壊する際に得られます。ミュオンを絶縁体あるいは半導体の性質を持つ有機化合物に衝突させると、ミュオンは運動エネルギーを失っていきながら電子との束縛状態である水素原子状のミュオニウム(Mu = [µ+e])の状態で存在するようになり、最終的に物質中で安定な位置に落ち着くことが知られています。加速器によって発生させたミュオンはスピンの向きが揃っていてほぼ完全にスピン偏極しているという性質があります。この性質を利用することで、水素ラジカルの反応をミュオニウムで代替して比較的容易に観測同定することが可能です。さらに、ミュオニウムから生成する常磁性のラジカルは高エネルギー状態となっていて、水素が付加して生成するラジカルよりも高い反応性を示します。

ミュオンと有機化合物の反応について、具体的な事例を図1に示します。この事例は筆者らが以前のプレスリリースで紹介したホスファアントラセンの素粒子ラジカル反応で、リン原子に位置選択的にミュオニウムが付加して1種類の常磁性分子が生成することをミュオンスピン回転・共鳴(µSR)測定実験と密度汎関数法(DFT)[用語2]計算によって、同定しました。このとき、ホスファアントラセン構造を安定化するために導入したトリフルオロメチル(CF3)基が引き起こす分子ひずみがミュオンの同位体効果によって解消され、3個の環から成る分子は元々の平面構造を保った、高エネルギー状態となることが分かりました。また、この常磁性ミュオニウム付加体のµSR観測では、0.16 M(1 M = 1 mol/L)程度のホスファアントラセン溶液試料を用いて行っていますが、これよりも希薄濃度の試料を用いると常磁性ミュオニウム付加体は観測されなくなりました。一般的に有機分子の溶液試料を用いてµSRでミュオニウム付加体を観測する場合、0.5 M程度の濃度が望ましいとされているため、ホスファアントラセンのµSR測定で用いた溶液試料の濃度は比較的低かったと言えます。

  1. 素粒子ミュオンを用いた高エネルギー複素環ラジカルの創成|旧・東京工業大学 別窓
  2. 図1. ホスファアントラセンのミュオニウム(Mu)付加反応

    図1. ホスファアントラセンのミュオニウム(Mu)付加反応

    アントラセンは3個のベンゼン環が融合した分子で、多環芳香族炭化水素(PAH)[用語3]の一例です。PAHにはペンタセンのように優れた機能性を示す例が多いことを踏まえ、筆者らはさらにサイズの大きいPAHのリン類縁体の合成研究を試み、図2に示すような、テトラフェンのリン類縁体であるホスファテトラフェン1を単離可能な状態として合成しました。分子内に含まれるP=C二重結合はほぼ無極性で、C=C二重結合に近い性質を示すことが知られています。このようなPAHの高周期類縁体ではバンドギャップが小さくなることが知られており、特徴的な電子機能だけでなく、活性酸素種などのラジカルを効率よく捕捉する性質が期待されます。また、ラジカルを捕捉して生成する常磁性分子には、電子スピンと核スピンと組み合わせて量子コンピューター計算を実行できる可能性なども考えられます。

    図2. テトラフェンとホスファテトラフェンの構造

    図2. テトラフェンとホスファテトラフェンの構造

    図2に示した1は合成の難度が比較的高く、µSR測定に適した濃度の溶液試料を調製することは極めて困難でした。しかし、分子構造に含まれるパイ電子系の拡張によってミュオニウムとの反応性が向上している可能性を考慮し、µSR測定を試みることとし、カナダのTRIUMFサイクロトロン施設[用語4]で測定を実施しました。

研究成果

本研究では、脱気したテトラヒドロフラン(THF)にホスファテトラフェンを溶かした溶液(濃度0.060 Mで調製)にミュオンビームを照射し、0.86 Tの外部磁場を印加した条件で横磁場ミュオンスピン回転(TF-µSR)[用語5]測定を行いました。図3aは測定で得られたスペクトルです。120 MHz付近にミュオンそのものの反磁性シグナル(nµ)が現れており、そこからほぼ等間隔で離れた常磁性シグナル(ν12ν43)が現れています。これは、二つの常磁性シグナルの周波数の差から307 MHz程度のミュオン超微細結合定数(Aµ)を示す常磁性ラジカルであると考えられ、ほぼ1種類のミュオニウム付加体が生成していることを示しています。驚くべきことに、用いた1の溶液試料の濃度が通常の有機分子ではTF-µSRシグナルの観測が不可能であるほど低かったにもかかわらず、常磁性シグナルが明瞭に観測されました。

続いて、生成したミュオニウム付加体の構造を確実に同定するために、ミュオン準位交差共鳴(µLCR)測定[用語6]を行ったところ、図3bに示すスペクトルからわかるように0.75 T付近に一つの共鳴シグナルが現れました。これは分子中の31P核の超微細結合定数(128 MHz)に相当します。DFT計算の結果、図4に示す反応式のようにミュオニウムが1のリン原子に位置選択的に付加して1Muが生成しており、背景項で述べたホスファアントラセンのミュオニウム付加体と同様に、零点エネルギー[用語7]の上昇をもたらすミュオンの同位体効果が作用することで、融合(縮環)した4個の環が平面をなす準安定構造が形成されていることが同定されました(図5)。

図3. a)ホスファテトラフェンのTHF溶液(0.060 M)のTF-µSRスペクトル。0 MHzのシグナル(*印)はフーリエ変換で生じるアーティファクト、–40 MHz付近の小さいシグナルはν12シグナルの反射による。b)1のµLCRスペクトル。

図3. a)ホスファテトラフェンのTHF溶液(0.060 M)のTF-µSRスペクトル。0 MHzのシグナル(*印)はフーリエ変換で生じるアーティファクト、–40 MHz付近の小さいシグナルはν12シグナルの反射による。b)1のµLCRスペクトル。

図4. 1への位置選択的ミュオニウム付加反応。

図4. 1への位置選択的ミュオニウム付加反応。

図5. a)1Muの最安定構造。計算はミュオニウム(Mu)の代わりに水素を用いて行っている。リン原子を含む6員環は封筒のようなかたちに歪んでいる。b)4個の環が共平面をなす1Muの準安定構造。

図5. a)1Muの最安定構造。計算はミュオニウム(Mu)の代わりに水素を用いて行っている。リン原子を含む6員環は封筒のようなかたちに歪んでいる。b)4個の環が共平面をなす1Muの準安定構造。

今回のµSR測定実験において、例外的な低濃度溶液試料でもホスファテトラフェン1のミュオニウム付加体1Muが観測されたことは、ほぼ拡散律速となっている速度定数(1010~1011 M–1 s–1あるいはそれ以上)で1へのミュオニウム付加反応が進行していることを示唆しています。これは、ベンゼンにミュオニウムが付加してシクロヘキサジエニルラジカルが生成するときの速度定数(8.5x109 M–1 s–1)と比べて少なくとも10~100倍の速さで1にミュオニウムが付加していることを意味しています。すなわち、付加対象の分子のパイ電子系を拡張することで、リン原子にミュオニウムが付加する効率を顕著に向上させる効果が期待できると考えられます。筆者らの調査の限りでは、今回の0.060 M濃度の溶液試料で明確なミュオニウム付加体が観測された結果は、これまでのミュオン分光研究においては最も低濃度の記録です。

社会的インパクト

多環芳香族炭化水素(PAH)に含まれる2次元的なパイ共役系構造の特徴的な電子物性は、有機半導体や発光材料などのさまざまな研究分野において興味がもたれていますが、近年の合成技術の進歩によってPAHの骨格炭素を高周期元素に置き換えることがある程度可能となっています。このような高周期元素を用いて新たなPAH型分子を構築することによってその物性を大きく変換できることがこれまでの有機化学研究から示唆されていますが、素粒子ミュオンが関わるラジカル反応の動力学においても高周期元素を用いたPAHの構造編集が大きな効果を与えることが、今回の試みによって明らかとなりました。また、生成したラジカルは2次元的なパイ共役系構造に組み込まれているので、独特の高エネルギー状態を利用した機能性材料の開発などに結びつく可能性も期待されます。

今後の展開

µSRでは加速器を使ってつくり出したミュオンビームを用いましたが、これは地球の上空でミュオンが生成している現象と同じ仕組みです(図6)。すなわち、地上には上空でつくり出されている宇宙線ミュオンが常に降り注いでおり、ピラミッドや原子炉などの巨大建造物や火山の透視技術に利用されています。宇宙線ミュオンは加速器からつくり出されるミュオンビームよりも極めて低密度なので物質材料研究にはこれまで使われてきませんでしたが、今回見出した知見をもとに素粒子ラジカル反応の更なる高効率化を図ることができれば、宇宙線ミュオンと分子の相互作用を利用した夢のような新しい科学技術の創成にも期待がかかります。

図6. 宇宙線ミュオンの生成過程。Z.-X. Zhang et al., Rock Mech. Rock Eng. 2020, 53, p4893をもとに作成。

図6. 宇宙線ミュオンの生成過程。Z.-X. Zhang et al., Rock Mech. Rock Eng. 2020, 53, p4893をもとに作成。

  • 付記

本研究の一部は、JSPS科学研究費助成事業 基盤研究(B)「素粒子ミュオンによる高エネルギー開殻分子構造の創出と新規スピン機能ユニットの開拓」(19H02685)、同 挑戦的研究(萌芽)「高周期カルボニルへの選択的ミュオニウム付加による未踏拡張パイ共役系開殻分子の創出」(22K19023)等の助成を受けて行われました。

  • 用語説明

[用語1]ミュオンスピン回転・共鳴(µSR)測定実験:ミュオンの平均寿命は2.2マイクロ秒であるが、ミュオンが崩壊すると式1の反応によって陽電子(e+)と2種類のニュートリノ(ν)が生成する。ここで生成する陽電子を観測することで、元々完全にスピン偏極していたミュオンの変化が明らかとなり、物質の構造や性質を解析することができる。

[用語2]密度汎関数法(DFT):原子、分子、凝集系などの多体電子系に電 子状態を調べるために用いられる量子力学の手法で、エネルギーなどの物性を電子密度から計算可能であるとする。

[用語3]多環芳香族炭化水素:PAHはPolycyclic Aromatic Hydrocarbonの略で、芳香環が縮合した炭化水素の総称である。テトラフェンは、直線状のアントラセンと折れ曲がり構造のフェナントレンを組み合わせたような4環性分子である。

[用語4]TRIUMFサイクロトロン施設:カナダ・バンクーバーのサイクロトロン施設で、直流状(DC)ミュオンビームを提供している。TRIUMFはTRI-University Meson Facilityの略。1968年設立。

[用語5]横磁場ミュオンスピン回転(TF-µSR):ミュオンのスピン方向に垂直に外部磁場(B)が印加された状態で、生成するミュオニウム付加体のミュオンスピン歳差運動を観測する方法。図7に概略を示すが、実際にはミュオンのスピン偏極方向を90度回転させ、ミュオンビームの経路と平行な外部磁場を印加することでミュオンのスピン方向に垂直に外部磁場がかかった状態をつくり出している。観測の過程は、まず、(1)加速器から生じたミュオンビームがミュオン検出器を通過して試料に照射され、試料にミュオンが止まるとともに電子時計がスタートされて陽電子検出器での観測が始まる。次に、(2)試料のなかでミュオニウム付加体が生成すると、ミュオンの崩壊によって生成する陽電子が検出器によって観測される。そして、(3)観測される陽電子が十分少なくなると観測が終わり、次の陽電子検出のために時計がリセットされる。この(1)〜(3)の過程を繰り返すことで、時間スペクトルが陽電子数のヒストグラムとして得られる。

図7. TF-µSRの概略図

図7. TF-µSRの概略図

[用語6]ミュオン準位交差共鳴(µLCR)測定:ミュオンのスピン方向に平行に外部磁場を掃引して、ミュオンのスピン偏極に関する情報を得る方法。図8に実験装置の概略図を示す。試料の前方(Forward)と後方(Backward)に陽電子検出器を設置し、磁場を変化させながら前方と後方の検出器で観測される単位時間あたりの陽電子数の比(アシンメトリー)からミュオンスピン偏極と外部磁場の相関をモニターする。µLCRでは、ミュオンと電子の間の相互作用に加えて、核スピンの超微細相互作用を観測することも可能である。

図8. TF-µSRの概略図

図8. TF-µSRの概略図

[用語7]零点エネルギー:力学的な系が最低エネルギーの状態にある場合に残っている運動のエネルギー。

  • 論文情報
掲載誌: Scientific Reports
タイトル: Muon spectroscopy of a 12-phosphatetraphene with extremely efficient radical trapping properties
著者: Shigekazu Ito, Kohei Yasuda, Keisuke Ishihara, Victoria L. Karner, Kenji M. Kojima, Iain McKenzie
DOI: 10.1038/s41598-024-84611-w別窓
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