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エレクトロスプレー・冷却イオントラップ法によるノルアドレナリン・アルカリ金属イオン錯体の気相分光

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2017.05.23

カテコールアミン神経伝達物質の一種であるノルアドレナリン(NAd)は、その分泌量がうつ病と相関があることが知られている。炭酸リチウムは最古の抗うつ剤として知られており[1、2]、Li+がNAdの分泌量に影響を及ぼすことが分かっている[3]。しかし、その作用機構は未だ解明されていない。我々はこの作用機構について、Li+がNAdのコンフォメーションに影響を及ぼしているのではないかと考えた。NAdは複数の単結合をもつ分子であり、生体内では多様なコンフォメーションをとりうる。一方、NAdは受容体タンパク質と結合することでシグナルを伝達するが、結合形成の際には特定のコンフォメーションをとっている。ここから、NAdにLi+が結合したクラスター(NAdLi+)が通常のNAd(プロトン付加体;NAdH+)と異なるコンフォメーションを形成し、これが受容体タンパク質による分子認識過程に影響を及ぼす可能性がある。そこでNAdLi+の紫外・赤外スペクトルをエレクトロスプレーイオン化(ESI)・冷却イオントラップ分光装置[4]で測定し、コンフォメーションを明らかにすることを試みた。

実験装置

図1. 実験装置
エレクトロスプレー(ESI)で生成したイオンを四重極質量分析器(Q-MS)で質量選別し、特定の分子量のイオンのみを冷却イオントラップ(cryogenic ion trap)に導く。ここでイオンは極低温に冷却され、コンフォメーション揺らぎが凍結される。ここに紫外レーザーを照射し、紫外光吸収によって生じた光解離生成物を飛行時間型質量分析器(TOF-MS)で検出する。

図1にエレクトロスプレー・冷却イオントラップ装置の模式図を示す。NAd及びLiClのメタノール溶液をエレクトロスプレーで噴霧することによりNAdLi+を生成した。これをエレクトロスプレーで真空中に取り出し、冷却イオントラップを用いて10 K程に冷却した。これによって、コンフォメーションの揺らぎを凍結することができ、各コンフォマーを異性体として分離観測できる様になる。ここに波長可変紫外レーザーを導入し、紫外吸収によって生じるフラグメントイオンを飛行時間型質量分析器で検出した。フラグメントイオンは親イオンが紫外光を吸収したときにだけ観測されるので、フラグメントイオン量をモニターしながら紫外光を波長掃引することで、紫外吸収に対応する紫外光解離(UVPD)スペクトルを測定できる。UVPDスペクトルには種々のコンフォマーの電子遷移が混在して観測されるので、これらを分けて測定するためにUV-UVホールバーニング(HB)分光法を用いた(図2)。この方法では、まずUVPDスペクトルに観測された特定のバンドに紫外レーザーνPの波長を固定し、フラグメント量をモニターする。このフラグメント量は固定した紫外レーザーの波長に吸収をもつコンフォマーの基底状態の分子数に比例する。次に、もう1台の波長可変紫外レーザーνBを導入し、波長掃引する。もし、νBがνPでモニターしているコンフォマーの電子遷移に共鳴すると、そのコンフォマーはνBによって電子励起され、基底状態の分子数が減少する。その結果、νPで生じるフラグメント量も減少する。νBが他のコンフォマーを励起した場合にはフラグメント量は変化しない。従って、νPでモニターしているコンフォマーのみの電子遷移をフラグメント量の減少として検出することができる。一方、νBを波長可変赤外レーザーνIRに置き換えると、コンフォマーごとの振動スペクトルを測定することができる。これをIR dip分光法と呼ぶ。

UV-UV HB分光法の原理

図2. UV-UV HB分光法の原理

図3にNAdLi+及び比較のためにNAdH+[5]とNAdNa+のUVPDスペクトルを示す。NAdH+とNAdNa+では34,000~34,500 cm-1付近に長いプログレッションが観測されているが、NAdLi+ではその領域にバンドは観測されていない。NAdH+の長波長側に観測されるこのプログレッションは、アミン鎖がベンゼン環の方を向いたfold構造に由来するものであることが分かっており[5]、NAdLi+ではfold構造が存在しないことが強く示唆される。これを確かめるために、UV-UV HB及びIR dipスペクトルを測定した。

ノルアドレナリンのプロトン付加体及びアルカリ金属イオン錯体のUVPDスペクトル

図3. ノルアドレナリンのプロトン付加体及びアルカリ金属イオン錯体のUVPDスペクトル

NAdLi+のUV-UV HBスペクトルを測定した結果、4個の異なるコンフォマーが共存していることが分かった(図4)。各コンフォマーのIR dipスペクトルを測定したところ、ほとんど同一のスペクトルが得られた。これは、これらのコンフォマーが共通のアミン鎖コンフォメーションをとり、カテコールOH基の配向だけが異なることを示唆している。アミン鎖の構造を決定するために、既に構造帰属が完了しているNAdH+のIR dipスペクトル[5]と比較した(図5)。NAdH+ではカテコールOH基の配向が異なる3つのfold-1構造と2つのextend構造をとり、それぞれのスペクトルと比較するとNAdLi+のスペクトルはextend型に帰属できることが分かった。唯一3,150 cm-1付近のバンドがNAdLi+では観測されていないが、このバンドはN-H+伸縮振動に帰属されており、H+がLi+に置換されると消失する。以上より、NAdLi+はextend構造のみをとることが分かった。同様の測定をNAdNa+に対しても行ったところ、NAdNa+は2つのfold-1構造と2つのextend構造をとることが分かった。つまり、extend構造のみをとるNAdLi+は特異的であり、冒頭に述べた様に、その特異的なコンフォメーションが分子認識過程に影響を及ぼしている可能性が示唆された。

ノルアドレナリン・リチウムイオン錯体のUVPDスペクトル(最下段)とUV-UV HBスペクトル

図4. ノルアドレナリン・リチウムイオン錯体のUVPDスペクトル(最下段)とUV-UV HBスペクトル

ノルアドレナリン・リチウムイオン錯体及びプロトン付加体のIR dipスペクトル

図5. ノルアドレナリン・リチウムイオン錯体及びプロトン付加体のIR dipスペクトル

参考文献

  • [1] J. F. Cade, Bull. World Health Organ. 78, 518 (1949).
  • [2] I. B. Pearson and F. A. Jenner, Nature 232, 532 (1971).
  • [3] H. K. Manji and R. H. Lenox, Biol. Psychiatry 48, 518 (2000).
  • [4] S. Ishiuchi, et al., J. Mol. Spectrosc. 332, 45 (2017).
  • [5] H. Wako, et al., Phys. Chem. Chem. Phys. (2017) in press.
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